#1 「できません」を言えなきゃいけない時だってある
はじめに
みなさま、はじめてお目にかかります。どこにでもいる社会人、onniと申します。
先にお伝えしたいこととして、当記事は一般流通しているビジネス書やセミナーを否定する為に書いた記事ではございません。
昔も私を含めて、心が楽になればと思い記事を書くことにいたしました。
自分は世の中の型にハマっていないのではないかというじんわりとした孤独感
私は30代後半のどこにでもいる社会人です。
社会人になり、4回の自主退職をした私は自称「転職キメラ」と名乗る程度には様々な職業を経験してきました。
その中の一つの会社で、2ヵ月に一度だったかと思いますが上司から主にビジネス書の課題図書が与えられ、それを各々が自腹で購入し読むという習慣の会社がありました。
具体的に何を読まされた(自発的ではないのであえてこの表現になります)というのは、もはや覚えてもいない話しで申し訳ないのですが、それくらいには私には一冊もその本の内容が刺さらなかったのです。
同じ図書を与えられた他の社員はどういう気持ちで読んでいるのだろう。
何か、学ぶことがあるのだろうか。
そうは思ったものの、そんなことが言える空気でもありません。上司の耳にでも入れば何を言われるやらですし、そもそもこの課題図書が理解できない可哀想な大人と思われたくもなかったのです。
話しは脱線しますが「可哀想」という言葉には「自分の知ったこっちゃないけど、大変そうであったり悲惨な目にあっている事柄」という意味があるなと近年思っています。
話しを戻します。という上記の意味も含め、大した学もない癖にプライドだけは一丁前だった私には本当に苦痛な課題でした。
そしてそれと同時に「私はこの本に書いているようなレギュラーな大人ではないのか」とたまに落ち込むのでした。
「できません」は言いません?とはいえ限度はある
上記のとおり、レギュラーな大人にも少し憧れがあるものの、それはつまり「本のとおりの思考」にならない限り、私の目指すレギュラーな大人にはなれない私。
しかし、どうしても自分の中に浸透しない考えがあります。
「できません」「わかりません」は言いません。
というマインドです。
本にもネットの記事にもよく書いている文言です。これ、本当はもっと違う話しがしたいのにインパクトの為に誇大な表現をしているのか?と思い改めて調べましたがやはり、どうも私には浸透しない内容でした。
新入社員が使うには生意気?顧客相手に使うには失礼?
いや、できないものはできないしわからないものはわからないでしょう。と思ってしまうのです。
とはいえ、社会人になってからすぐにこのマインドを表に出した「尖った」社員だったわけでももちろんなく、頭の中では「無理だろ」とは悪態つきつつもそれなりに「できません」は言わずに生きてきました。
まぁ、その結果がこの「転職キメラ」なのではないでしょうか。
当たり前の話しをしますが「できません」には「可能」と「不可能」という判断基準が必要となります。
ざっくりいえば上記2つの選択肢、0か1しかありませんが更に細分化をするとどうなるでしょうか。
「容易にこなすことができる」
「多少の努力でできる」
「かなりの努力が必要になるが、頑張ればできる」
「とんでもない努力が必要になるにも関わらず頑張ってもできない可能性がある」
など、0.999~0.001という数えきれない程の選択肢があります。
さぁ、ここで問題です。あなたはどこで四捨五入しますか?
私自身は結構な面倒くさがりやです。努力も嫌い、勝てる試合が好き。
せいぜい出来ても「多少の努力でできる」くらいまでかと思います。それ以下は全部0です。
とはいえこの「多少」も更に細分化されるかとは思いますが、私の中では「解決のビジョンやイメージはついているものの、最速の解決策が見つからないから調査をする程度」を努力とし「解決のビジョンがまるで見えない、どうやって解決の糸口を見つけたらよいのかわからない」は多少の努力でもないと思っています。
ところが、世の中には「とんでもない努力が必要になるにも関わらず頑張ってもできない可能性がある」の0.001ですら1にする為に頑張る人がいるのです。
身近にいた人のマインドですと
「とんでもない努力」→「自分の能力が低いからであって、他の人にはなんてことないに決まっている」
「頑張っても」→「自分は努力が出来ないだけ。まだできたことが山ほどある」
なんて考えるそうです。怠け者には耳が痛すぎてちぎれてしまいそうです。
そしてこれを指摘をすると「そこまでは考えていないよ」と言われるのです。んなわけ…
結果的に「できません」がほとんど言えることがなく、仕事の上や下から本人のキャパシティを超える労働を与えられ、勤務時間外にもふと「あれ、どうやったら解決できるだろうか」なんて考えてしまっていたようで、タイムカード上存在しないだけで無給で仕事をし続けていたのです。
そこまでして「できます」を貫きたかったのだろうかと聞いても「私は一般的な人より劣っているから」や「私しかいないんだ」とだけ返ってきて、なかなか救う為の話になりませんでした。
そんな生活が健康的な筈もなく、その方は後に過労から仕事に行けなくなってしまい、退職をすることになってしまったのです。
その方が「できません」「わかりません」を言わない事を善とする記事を読んでいたかはまた別の話しとして、世の中に蔓延しているこの強い言葉はじわりじわりと呪いとなってしまい、限度を超えて「何があっても言ってはいけない」になってしまっているような気がしました。
解決方法はどこに…
では、どうしたらこの問題は解決するのでしょうか。
こうなると今度は「じゃあどこからできませんを言えばいいの?」なんて聞かれてしまいそうですね。
残念ながらこのラインは個人の力量や言える環境であるかによって大きく変わってしまいます
私個人のボーダーラインですと、転職キメラ社会人として長く生きている為か上司と分かり合えない喧嘩をした場合、すぐにでもまた転職をするだけだと考えてしまいます。(当然、そんなに甘くないことも承知の上です。)
しかし前章で出てきた方や、転職キメラになんてなりたくない方、本当に誠実な方なんだと思います。
私のこれは一種の逃げ癖なので、同じことをただ繰り返すだけなのです。
みんなも逃げよう!なんて言えませんし、そんな事を繰り返している人に嫌悪感を抱く方もいるでしょう。
そんな、人によっては人間の底辺にも思えてしまうような私から少しでも楽になってもらいたい気持ちで送る言葉は
「自分の声を聞いてあげてほしい」と
「頼まれたことの30%を断れない環境はそもそも向いていない可能性がある」ということです。
真面目な人ほど自分の声を聞きません。周りの声が最優先なのです。
自分が嫌だと一度でも言ったらイヤ。それをまずは受け止めて下さい。
そして、断る事だって仕事です。今、あなたが引き受けている頼まれ事の30%、できれば50%は断ってもらいたいです。
それが許されない環境というのは、きっとあなたをいいように使っている環境なのではないでしょうか。
これこそよく言われる言葉ですが、自分の味方はあなただけです。
少しでも、みんなが「できません」が言えるようになってくれれば嬉しいなと思っています。
こうは書くものの、結局これも正解ではないのでしょう。
う~~~ん、難しい!どちらにせよ、苦しい時に助けてくれるのは「自分」ではなくて「第三者」のような気がします。