性について考えた
この三連休は家で過ごしていました。土曜日は無事平穏に過ごせたのですが、日曜日の夕方、向こうは相撲を見ていたし、まだご飯はいいというので自由な時間ができたと思い、自分の部屋で中国語衰えを感じていたので台湾の番組を見ていました。
そうしたら、なにやらリビングでゴソゴソ聞こえてくる・・・。
何やっているの?と聞いたらそこで怒り出した。
なんで怒り出したのかは分かる。どうして一緒にいないんだと不満だから、ゴソゴソと音を出していたのはよく分かる。だから明日は古紙のごみの日だからまとめていたと怒っている。
でも今はフリー時間だし、ちょっとは自由にYouTubeを見たっていいじゃんって思ったら、それがだめだった。
こそこそ自分の部屋で誰とラインしているんだとか怒り出す。
もうこうなったら向こうは怒るという感情を選択しているので、とことん怒る。無視してご飯を作ったのだが、それも箸をつけす、私も食べずにすべて冷蔵庫へ入れて、そして翌日の朝も怒っている。
もう慣れたけど、流石にご飯を食べすに空腹な状態で怒られ続けていたら、私の元気がなくなった。三連休最後の月曜日は自分の部屋でふて寝していた。
やっと夕方になり、怒らなくなった。昨日の夕飯を温めなおし、レンコンの煮ものがおいしいというまでになった。
日曜日は夜も朝もセックスはしていなかった。だからどうやらものすごく元気らしい。普通はビールを飲むと夜ではなく朝なのだが、その夜は夜に。
あるYouTubeの番組で私たちはこの人生を使ってゲームをしているという。
そのゲームの内容は多種多様で「パートナーシップ」「仕事」「家族」「子育て」「お金」「権力」「趣味」色々ある。
そうであるのなら今の私は「パートナーシップ」と「性」を選んでいることになるんだろう。
逆に今のところはそれ以外にやることと言ったら「趣味」しかない。
どうしてこうなったんだろうかと考えている。身体のあるうちに、身体がないと出来ないことをぎゅうぎゅうづめでしている感じだ。
女として生まれてきたから、女としてやっておくべきことを今更ながらやっている。
日曜日ふて寝しながら読んだ「窯変源氏物語」の一節に
人は何故人の訪れを待ち、待たれる男は何故その待ち侘びる女の許を訪れないのだろう。単純なことだ。女は女のままでは女ですらない。それだけのことだ。