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【ビル・ガリクソン】MLBドラフト全体2位というエリート投手は巨人軍で期待通りの投球をみせて活躍 その華やかさの裏には糖尿病を患いインシュリン注射を打ちながらマウンドに立ち続けていた不屈の助っ人

割引あり

おはようございます。
日本で戦うために、海を渡ってきた
愛すべき助っ人たち。

今回は、ビル・ガリクソンを
取り上げていきます

https://www.youtube.com/watch?v=7SFmchjVhxM&t=23s

1959年、アメリカ合衆国ミネソタ州に生まれた
本名ウィリアム・リー・ガリクソンは
イリノイ州にあるジョリエットカソリック高校を
卒業した1977年、MLBドラフト全体の2位という
高評価でモントリオール・エクスポズに
入団しました。

弱冠20才の1979年、MLB昇格を果たすと
翌年には当時の大リーグ新人記録に
あと1つと迫る1試合18奪三振の快投を演じるなど
期待通りの活躍を見せ、
最終的に10勝5敗の成績をマークして
ナショナルリーグ新人王に輝いた頃、
ある病魔が忍び寄っていたのです。

「21歳で1型糖尿病と診断された時、
私の望みはもう叶わないと思いました。
ずっとこの病気と生きるだけだと。
しかし薬で血糖値をコントロールすれば
普通の生活はもちろん、
スポーツを諦める必要もないと学び、
その恐怖を克服しました。
そしてナンバーワンの野球選手と
ナンバーワンの糖尿病患者になってやろうと
前向きな姿勢で受け止めたのです。
アップルパイを全部食べる事は出来ませんが
自分に大切な事で出来ないことはありません」
と、自身の著書「ナイスコントロール」にも
記載しているように、食事療法と摂生に
努めながら、インシュリン注射を毎日2本打って
マウンドに立ち続けたのです。

「私は積極的に生きたいから
病気と闘いながら野球を続けるよ」と
長期ストライキで中断した1981年も
チームの地区優勝に貢献したのを皮切りに
翌年から6年連続2桁勝利を記録しました。

シンシナティ・レッズを経由して
ニューヨーク・ヤンキースに移籍していた
1988年1月、マーチン監督とウマが
合わなかったうえ、
年俸も90万ドルから30万ドルダウンの
提示を受けていたメジャー通算101勝の右腕は、
エースの江川が引退した穴を埋めるべく
助っ人を探していた
読売ジャイアンツから2年総額330万ドルの
オファーを受けたのです。

落合の1億3000万円が日本人最高年俸だった
時代に、破格の好条件で誘われた29歳の若者は
年俸調停が期限切れとなった事から日本行きを決断、
身長190センチ、体重90キロの助っ人は
海を渡って来たのでした。

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