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読書感想文の思い出

この時期、「読書感想文」ということばを聞いて、良い気分になる人はそう多くないのではないかと思う。
私にとっても例外ではない。夏休みの宿題はちゃんとこなす方だったが、なにを読んでどのような感想文を書いたのか、全く記憶が残っていない。
しかし、ひとつだけ未だに覚えている出来事がある。

高校生のとき、夏休みの宿題ではなくある国語の授業の一コマのなかで、エッセイを読んでそれに対して読書感想文を書く、という授業が行われたことがあった。クラスメイトとの相談はできず、小テストのように自分だけで書かなくてはならない。
そのエッセイがどのような内容だったかは全く覚えていないが、その感想文を書くことにとにかく苦労したことはよく覚えている。

そのエッセイは別に文章量が多いわけでもなく、内容も難しいわけではなかった。さっさと読んで思ったことを率直に書きたいのだが、どういうことから書いていこうか全く脳裏に浮かばなかったのである。
自分以外のクラスメイトは、間もなくカリカリと書き始めていたが、私はいつまで経っても一文字も書けずにいた。周囲のシャープペンシルの騒音が焦燥を掻き立てる。

何度も何度も読み直して書くべきことを考えあぐねていたが、何も書くことができないまま40分が経過して残り10分を切った。原稿用紙に文字をとにかく埋め尽くすのに必要な時間のデッドラインに到達していた。
そこまできて、ようやく最初の一文字目を書き始めることができた。そこからあとは勢いのままがむしゃらにありったけの速さで文字を書き連ねた。

ほどなくしてチャイムが鳴り、用紙の回収が後ろから行わた。それが自分の席に回ってくる頃に8割ほど埋めた状態で書き終わり提出した。
40分間読んでは考えて読んでは考えて、10分間で書く。後にも先にもそんなペース配分で文章を書いたことは無いだろう。

後日の国語の授業で、先日の感想文の総評が行われた。私はあれだけ苦労したのだから、ほかのクラスメイトがどのような感想を書いたのか気になっていた。
先生は、印象に残った感想文だと一つ取り上げて、誰のものとは言わず読み上げ始めた。覚えのある内容と文体。それがすぐに私が書いたあの感想文だということに気が付いた。

私は嬉しいというよりも混乱していた。あれは自分にとって会心作ではなく、どう考えても苦し紛れに捻りだした産物なのだが、どういう魂胆なのだろうか。クラスメイトはあれを聞いて何を思うのだろうか。読み上げられている最中にそんなことを考えていた。

読み終えて、先生は内容に対する自身の考えが端的にまとめられていてよく伝わってきた、と真面目な面持ちで評していたと思う。こちらを一瞥したような気もするが、それを受け止めきれずに見ていないふりをした。
腑に落ちないところはあるが、書き殴ったような勢いのある文字に気迫があったのかもしれない。しかし、内容的には何がそんなに先生に響いたのかのは半信半疑のままだった。

私は自分の感想文が読み上げられた、と周囲に自慢してまわる性格では無かったので、そのあとこのことを誰かに言うこともなかった。
あの感想文が誰によって書かれたのかを知っているのは私と先生の二人だけで、それが最後の10分で書かれたものだと知っているのは私だけだった。

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