屍の上で生きている

私の祖父は敗戦時に、満州国から引き揚げてきた1人である。原爆が投下された跡の長崎に帰ってきた。
彼らに住む場所を、となるのは自然な流れだろう。
ちょうど何も無くなった土地があった。誰が所有していたかもわからなくなっていたのだろうか、誰がそれを決めたのだろうか。詳しいことは何もわからない。

事実なのは私の祖父が爆心地近くの土地を与えられたということだ。


長崎で育った子供というのは、物心がつく前から原爆という存在を教え込まれているのではないかと思う。
事実私はそうだった。原爆関連の展示を見て感想を書く、というのが小学生の頃にあったのだ。
ガラス片が背中に刺さった人、被曝からしばらくした後に髪の毛からガラス片が出てきた人、焼けて皮膚の爛れた人。
あまり直視したくないような写真が大きく載ったもよばかりだったが感想を書かねばならないし、学校所蔵のものだから毎年内容が変わるわけもない。
脳裏にそれらが焼きついた結果、ある時点と点が線を結んだ。

祖母の家が爆心地までは徒歩10分もかからないような場所であること。
あの焼け野原の写真、凄惨な状況に陥った人々。

10歳の私は不意に気がついた。「この地面の下には、死体があるのではないか」と。
確証はない。だが一瞬で灰になった人々の残骸の話はたくさん学んでいる。
自分が生活を普通に営んでいた場所は、あの写真が撮影された場所とそう遠くないのだとやっと認識した。
罪悪感とも恐怖ともいえない感情が渦巻いて仕方なかったのをよく覚えている。
当時の私は何か行動をしたくて、どうしようもなくなって。
グラスに一杯、水を組んだ。

『のどが乾いてたまりませんでした。
水にはあぶらのようなものが一面に浮いていました。
どうしても水が欲しくて
とうとう油の浮いたまま飲みました。』
_とある少女の手記より

平和公園の噴水の前に刻まれている文言である。(事実、長崎の平和式典では献花も行われるが献水も行われている。)
このことが脳裏をよぎった_というより当時読んでいた怖い話を集めた本に書いてあったのを真似した気がする。

戦争が遠い過去になって久しいが、記録と記憶は受け継がねばならないと強く思う。平和であることの素晴らしさを語り継ぐことこそ、私が未来のためにできることだと思うのだ。


#未来のためにできること

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