あの夏の一幕と抹茶のカキ氷

 京都という街は恐ろしい。
 至る所に宇治金時や抹茶かき氷を提供するお店が存在し、夏頃になると報せを貼り出す。
 抹茶好きにとっては、堪能出来る嬉しさもあるが、財政破綻と腹痛の恐怖に苛まれもする日々である。

 そんなかき氷シーズンが少し落ち付きを見せ始めると、修学旅行なのか遠足なのか、制服姿の学生集団を目にする機会が増える。
 すると、ふと思い出す。
 勉強に身を浸しながらも充実していた、受験生としての夏の日々を。
 僕の場合、真っ先に思い浮かぶのはあの夏の京大実戦模試である。


 大学受験に向けた中間確認としてそれなりに意義を持つ夏の冠模試。
 とある一件で試験という場での数学の調子を明確に崩していた僕は、本試験も手応えは皆無であったが、返却された結果は案の定であった。
 国英理も別に良かったわけではないが、何よりも数学が完答たったの1問と部分点ポロポロ程度というのが不甲斐なかった。
 自分が目指す点数には程遠い悲惨の一言に尽きる現状をいざ突き付けられると、分かっていたこととはいえ流石に刺さるものがあった。

 進学校を自称していた我が母校は模試後の半期の決起集会があり、そこで全体向けの労いや鼓舞や説明をした後、各々の生徒が先生方と個別で話をしたりしなかったりする。
 僕は特に話せそうなこともなく気分も優れないので場を後にしようとしたが、何人かの先生が態々声を掛けに来て下さった。
 当然模試の結果は御存知なはずであった。やはりそれぐらい悲惨だったのか。
 しかし、先生の方から来て下さることは、曲者揃いの先生方が興味深く面白かった為普段から良く交流していた僕としては有難く嬉しいことではある。
 結局いざ会話をし始めると楽しくなってアレコレ話し込んでしまった。
 そして会話が終わる頃の見解は、皆概ね一致していた。
『結果は勿論心配やけれども、意外と心配はしていない』と。

 今回の京大実戦の数学、僕が唯一完答出来たのは複素数の問題であった。
 本問は見た瞬間解き方がピンと来て後は計算するだけであった為、10分弱でアッサリと確信を持って解けた。
 しかし蓋を開けてみれば、本問は受験者平均0.5点、猛者揃いの受験者の大半が部分点すら微塵も取れなかった超難問だったのである。
 とはいえ、難しい問題が出来ても簡単な問題が出来なければ、試験という観点では意味が無い。超難問の35点も簡単な設問の35点も、同じ35点に過ぎない。
 受験戦略において「出来ることを確実に」は自明ながらも重要で、それさえ出来れば二ヶ所の魔界以外なら何とかなってしまったりする。

 先生方からは軽く釘を刺されつつも、「他を全部キッチリ落としてるあたりが師匠らしいな」とか「なんであの問題10分で解けるねん」とか「ピカソの絵みたい」とか言われた。
 最後のコメントは相槌を打ったものの、後から思い返すと謎だった。世界の見え方が違うって意味なのか?やはり曲者である。

 恩師達からの労いや指摘と、冗談混じりのたわいもない楽しい会話は、大切なことを改めて胸に刻む機会と共に再度前に進んでゆくキッカケをくれた。


 あの夏の一幕のお陰で、僕は今、こうして京都で好物を食べ夏を満喫している。
 透き通る旨味と深い渋味を兼ね備える抹茶や涼やかなかき氷と共に、夏季の記憶は鮮やかに彩られ溶け込んでゆく。

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