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「スリービルボード」と「イニシェリン島の精霊」を続けて観て大変モヤってしまった話

「イニシェリン島の精霊」を見てずっとモヤってました。
書きます。長いですよ。「島」と略します。
 
「島」を見にいく前日、ずっと見たかった同じ監督の前作
「スリービルボード=板」もアマプラで予習していたので、
「島と板」の相乗効果で余計モヤりが増大して一月経ちました。
 
2本ともなんだかおんなじ。でも違う。
「板」から「島」に来て何かが深まってる。その
何かが言葉にならなくてモヤモヤが深まりました。
 
両作とも主人公は自分が正しいと信じる行動を貫く事で
ドツボにハマり、雪だるまの様に不幸が大きくなる。
自分が正しさを行う先には敵がいる。でも最後にはその
敵と自分がまるで同じなのではと気付いて呆然とする。
そしてナスすべも無くなって、ただボンヤリ立ちすくむ。
 
…そんな同じ展開なのかなと今のところは思えます。
懸命に生きる人間がどうしてもぶつかる壁みたいな、
避けられない命運みたいな物を抉り出すことに
この監督さんは熱を入れてるのかなと。
 
ここから先はネタバレになります。
 
「板=スリービルボード」の「正しさ」は分かりやすい。
それは「娘をレイプし焼き殺した犯人を探そうとしない
田舎町の警察を糾弾する母親の一途な執念」ですから。
 
「島」の「正しさ」は何だかよく分からない。
もう長く生きられないと悟った老人が、仲良しの青年と
パブでビールを一緒に飲む習慣を「拒む」という執念。

はあ?なんだそれ。それ執念なの?
 
執念なモンですから突拍子もなく事件が次々起こる。
でもその事件は余りに淡々と当たり前のように続く。
そのあっさり具合、何でもなさが逆に怖くて。
 
「板」の母親は「正しさ」が行われないので警察署長を
攻撃する。村のビルボードに署長を糾弾する広告を出す。
しかし、警察署長は末期癌で村人に慕われる人格者。
署長を慕う下っ端警官がいる。彼は「普通の白人」で
同性愛と黒人を嫌悪するマザコンで頭の悪い田舎者。
署長がピストル自殺して、マザコン警官はブチ切れる。
そして母親との激しいバトルを繰り広げる。
 
「島」の老人は豊かで教養があり、音楽の造詣も深いけど
多分、無為に過ごした長い時間を悔いていて、このまま
何も残せないまま死んでいく自分に耐えられないでいる。
その無為の後悔の象徴が、知恵遅れの青年と毎日決まって
午後2時過ぎからパブでビールをダラダラ飲み続ける時間。
青年から山羊のクソの話を何時間も聞かされ続けたりする。
 
老人は無為を脱するため、「毎日パブでダラダラビール」、
すなわち青年との絶縁を「正しさ」とした。
そして残された時間を自分の曲作りに費やそうと決意した。

知恵遅れ君にはどうして老人に拒まれるのか分からない。
だからずっと老人に付きまとう。村の中でもっと頭の弱い
精薄の少年に愚痴りながら。村人に馬鹿にされながら。
やがて老人は「正しさ」実行のために攻撃に移ります。
しかし、その攻撃は「自分に対して」でした。
 
「これ以上、俺に付き纏うというなら、
その度に、俺は指を一本切り落とすぞ」
 
知恵遅れ君は老人のそんな提案を信じられない。
しかし、あろうことか指は切り落とされてゆく。
青年は精薄の少年に八つ当たりする。


なぜ島の老人は、板の母親のように敵を攻撃しないのか。
仮想敵の青年を。それは多分、自分への処罰願望なのか。
無為の時間はきっと自分のせいでもあったと。
 
「板」では結局、娘殺しの犯人は分からないままです。
そして警官は「犯人と疑ったけど違っていた」若者を
「ヤツも酷いレイプ魔だから」と言う理由だけで殺す
と決め、銃を抱え母親を誘って車に乗って旅に出る。
 
警官はダルそうに聞く「アイツを殺したいか」
母親はダルそうに答える「そうでもないわね」
 
「島」では切り落とされた老人の指を、青年に
大切に飼われていたロバが食べて窒息死する。
青年は激しく悲しみ、老人の家に火をつけ復讐する。
家は燃え尽きる。浜辺で青年に会った老人は言う、
 
「ロバの事はすまなかった。これでおあいこだな」
 
そうなのか?青年は何も答えない。
そして2人は海岸に立ち尽くす。
 


 
この同じ主題と思える2本の映画の幕切れの
味わいの違いが深いモヤモヤをとなりました。

「板」は特別な事件から始まります。
「島」には特別なことが最初何もない。
誰にでもある普通の暮らしの先に生まれる執念が
不幸と破滅と死に繋がる「どうしようもなさ」を
そっと小石を置くように描いている。
両作とも登場人物が「途方に暮れる」姿で終わります。
でも「板」が特別な事の先の「途方に暮れる」なのに
「島」は普通の暮らしの先に「途方に暮れる」がくる。
「当たり前の願い」の前にパックリ穴が開く真っ暗闇。
 
署長は頭を撃ち抜いて死に
精薄の少年も湖で水死する
警官は職を失い
母親は村で孤立する
 
無垢で正直な者が皆壊滅する。
 
恐ろしい映画でした。
 
書いていて、もう一つ思い浮かびました。
 
「イニシュリン島」はアマデウスのサリエリに例えれば、
老人=サリエリの目の前に現れるのが天才モーツアルトではなく、
自分より遥かに劣っているはずの「愚か者」なのだなと。
頑張っても頑張っても、その「愚か者」と自分が同じだと
思い知ってしまう悲喜劇なのかもと。
 
そして「イニシュリン島」にはその「愚か者」ですら馬鹿にする
精薄の少年まで用意されてる。
「スリービルボード」の「いい人」である警察署長の自殺と
「イニシュリン島」の精薄の少年の水死が呼応している気がする。
 
「愚か者」の青年は「自分はナイスなんだ」と抗議する。
いい人なんだ、それだけで何故悪いんだと老人に詰め寄る。
老人は「いい人だけじゃダメなんだ。人の記憶に残らないと」
と反論する。その反論と「スリービルボード」の母親の
「娘の死を風化させたくない」の怨念も響き合う気もする。
 
老人が「人に記憶されるのが価値」という青年への反論の根拠
として「17世紀に生きたモーツアルトを今も人は覚えてる」
と得意げに語ったのに、
青年の妹さんが「モーツアルトは18世紀の人ですけどね!」と
ツッコむのがピリッと主題に繋がるスパイスになのも渋い。
 
いい気になってるお前こそ愚か者だと。
それって俺のことかと。
 
取り返しのつかない愚かさに必ず突進するのが人間。
そんな逃れようのない業の黒い塊を観てしまいました。

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