(勝手に)私の履歴書(3) インターネットと出会い、業務の中心がECとその周辺へ
偉人でもなければ他人から尊敬される人間でもない私ですが、この年齢(53)になっても好奇心が衰えず、新しいことに興味が湧く性格が災いし、スリリングな人生を歩む羽目になってしまった自分の半生を振り返ると共に、私がどう言う人間かという履歴を残したく、(勝手に)私の履歴書なるものを書いてみることにしました。本家、日本経済新聞の「私の履歴書」は成功者の歩みを綴るというオーセンティックなものですが、自分自身にそんな資格があるわけもなく、ただ、自己満足のために綴っていくことをお許しください。不定期に更新していきます。それでは第3話です。
パソコン通信で販売開始
1993年の通販会社入社後3年経過、マーケ部門での仕事も慣れてきて"何でも屋"から脱却、マルチメディアとかニューメディアといった領域の業務が増えてきました。CR-ROMのカタログを制作したことを皮切りに、当時NTTが実施していた街角端末(名前忘れました、今でいうLoppiみたいなもの)に通販カタログの情報を掲載した後、パソコン通信NIFTY-Serveへのショップ出店を実施しました。
ネット時代が本格到来する前の少し懐かしい時代。「パソ通?、テキストデータだけでモノを販売する?」関わっていた私ですら文字だけでモノが売れるの?と思っていたので社内に理解者なんていません。
「ショーツ 2マイグミ 1280yen」こんな情報でモノを販売する。でもやってみたら買ってくれる方がいらっしゃるんですよ。そもそもカタログ通販会社なので(当時)紙媒体という強いメディアがあったおかげで、ご家庭にあるカタログを奥様が見て、パソコンやってる旦那さんが、その奥様が書いたメモを見ながらパソ通を通じて注文を送ってくる。offline to onlineです(笑)。わずかな販売実績でしたが、何かとっても新しい時代が訪れたなという気がしていました。
始まったネット関連の仕事
その後、ウィンドウズ95発売、家庭にもコンピュータが普及し始める時代となりました。当時は富士通FMVでも3〜40万ぐらいしてたんじゃないかなあ(今だと何もできないレベルの低スペック)。その頃「インターネット研究」みたいなものがあちこちで始まり、私もよくわからないまま、日本のインターネット父と呼ばれる村井純氏のお話を聴講しに行ったりしました。そして、DNPが発足させたインターネット研究会に参加、カタログ通販会社として商用ネットで何ができる?を考える日々が始まりました。
明確にネット関連業務がスタートしたのもこの頃で、DNPが作ったポータルサイトにて商品販売テストやカタログ請求を受け付けることになりました。時を同じくしてマイクロソフトがMSNを日本でスタートすることが決まり、カタログ通販各社にコンテンツパートナーとしての打診がありました。検討の結果、MSNで情報配信するということになるのですが、MSの方々がはるばる四国高松までプレゼンに来られたときのことを今でも覚えています。先方はパソコンを用いてプレゼンする一方、私たちは会社の説明をするのにOHPでプレゼンという好対照ぶりでした。今思えばシュールで笑えるシーンでしたね。当時はまだ社員全員にパソコンがなかったし、パワポみたいなのを触ったこともなかったのですから。そんなMSNでのコンテンツは2つ。通販カタログの紹介とカタログを注文できるというだけでした。この頃からネットの仕事をしていると言い始めました。でもECとして本格的な販売はまだ先。97年頃の話です。
何でもやったEC立ち上げ時期
DNPのポータル、MSNでのコンテンツ配信、ニフティでのパソ通での商品販売を経て、98年にようやく自社ECサイト(cecile.co.jp)を立ち上げることに。当時は「Cecile on Network」というサイト名でした。9月中旬に立ち上がり、初月の売上は数万円くらいだったと思います。私が同社を辞める頃(2007年)には130億円くらいの規模にはなっていたので、今思えば小さな一歩でしたが大きな一歩でもあったと思います。同社でECを始めるきっかけとなったのは当時会社の中でも課題となっていた受注コストの問題でした。フリーダイヤルで受ける電話注文のコストをネットにシフトさせてコスト削減を図るのが主な目的でした。
ECをやり始めてからは毎日がチャレンジの連続。同じ頃、すでに楽天市場もAmazonもあったので、他社がどんなことをやっているのかウォッチしながら良いと思ったことは取り入れました。社内にはお手本も存在せず、すべて手探りでしたが、毎日がとても忙しく充実していましたね。
この頃(2000年前後)に経験したこと(懐かしい単語もありますね)
・メルマガ(自分で作って自分で配信)
補足:BCC配信→白ヤギさん配信
・メルマガ配信サーバの構築と配信アプリケーション導入
・セシールネットクラブ(会員組織)立ち上げ
・保険取次サービス/旅行取次サービスの導入
・ポイント制度開始
・デジタルカタログ導入
・ネットバンク決済導入
・世界初トラベラーズチェックのオンライン販売
・マーチャントビジネス開始(bk1での書籍販売)
・花のサブスクリプション販売(すでにやってました)
・オンラインでの服のコーディネート
・オーダーカーテン販売
当時、カタログ顧客が1,000万人くらいいましたのでオンライン側では物販以外にサービスも強化する動きだったのを覚えています。が、決してオンラインビジネスは順調だったわけではありません。初期の頃は商品発送時の同梱物に「セシールはオンライン販売を始めました」というチラシを1枚入れるだけでもカタログマーケ側になかなか承認もらえないのが事実でした。また、カタログ顧客に対して何とかオンラインへのシフトを企て、送客をしたかったのですが「君らのようなよくわからないビジネスに大切な顧客リストを使わせるわけにはいかない」と言われたことはいまだに忘れられない記憶です。今でいうDXが進まないようなことが当時も起こっていたわけです。
2000年5月ごろのECサイト(画像抜けはお許しを:インターネットアーカイブサイトから)
パソコン割賦販売の失敗から学んだこと
大昔のことで時効だと思うので最大の失敗について書きましょう。当時のニュースリリースも何も残っていないので私の記憶で書きますが、2000年頃、ネット会員を増やすために会社は富士通と業務提携してパソコン販売を始めます。
会員向けに富士通のFMVを販売する。価格はどこよりも安かったと思いますが、何せ当時のPCは高かったので割賦販売としました。これが最大の失敗。パソコンのスペックは日進月歩。3年間払い続けているうちに毎年のモデルチェンジで容量が多くクロック速くて安いものが出てくるため、お客様からマシンを変更してほしいとか、新しいのを買うから解約させてほしいなどが続出します。また、パソコンを販売したため、パソコンの使い方やインターネットに関する問い合わせが増加したことです。プロバイダ各社と協力して会員向けにプロバイダの紹介をしたりはしましたが、そもそもパソコンの使い方などに答えられる体制がなかったため、急遽、私がいるEC部門に専用コールセンターを設置し、対応することになりました。3年間の割賦販売だったため残額確認も多く、この問い合わせ対応が後々自分たちを苦しめることになります。
会員特性上、シニア顧客も多かったため、パソコンの使い方の問い合わせ対応は苦労しました。「いまパソコンはどのような状態ですか?」と尋ねると「コタツの上に置いていて、横に花瓶を並べている」との答えとか。。。まあ今となっては楽しい思い出ですが。
そして、肝心の販売台数はというと、両社の代表が握手して日経の紙面を飾り、目標10,000台としながら実際は400台くらいしか売れなかったはずで、マーケットの見誤りが甚だしかったのですが、目標にまったく足りなくとも顧客対応は責任を持ってやらねばならない。とにかくソフト屋はメンテナンスが必要なハードウエアを販売してはダメ、対応トレーニングが不十分なのにスタートさせてはいけない、そもそもマーケットをきちんと見られてなかったため、受注予測もマズかったことは大いに反省するところでした。それでもECとしての販売は順調に伸びていったことだけが救いでした。
そして更なるEC強化のため時代はウェブマーケティングに進んでいきます。
以上、第3話でした。
Cover Photo by Annie Spratt on Unsplash