支援者を考える~ASD当事者の立場から その6
「一部じゃないんだぞ‼」ー私が利用者の立場として就労移行支援Sに通っていた時に支援員(女性)から言われた言葉です。これは私にとってはトラウマ的出来事です。しかし、このことは『私の「トラウマ」体験 その1』で取り上げていますので、今回はこの「一部じゃない」という一言について考察したいと思います。
支援員という立場は利用者という立場と相対します。そんな時、様々な感情や考えに苛まれるのは事実です。ただ、この「一部じゃない」という考えは支援員に従事するとどうしても避けられないのではないでしょうか。根底に支援員自身が利用者の一部になる恐れを感じて、その上で舐められたくない、飲まれたくないという気持ちになり、この言葉は出てくると言えるでしょう。私も中学校での相談員経験はありますので、そこは理解できるところです。では、この言葉(「一部じゃない」)を言ってもいいのでしょうか。
それは「否」であり、そういう言動も取るべきではないと私は考えています。では、その理由について考察してみたいと思います。
ここではまず、支援員や利用者を「立場」として捉えています。支援員は「力ある立場」であり、利用者は「力ない立場」です。即ち、両者は対等ではない(非対称的な)関係です。ということは、「力ある立場」は「力ない立場」との関係において、「力を与える」ことで対等性を確保する義務と責任があります。ここでは支援員が利用者にそのような義務と責任を持つことになります。そのために、支援員には指導や指示、教育といった領域に権限を有しています。利用者にはそんな権限はありません。ただその責任もありません。その権限の責任は支援員にあります。権限がある分、責任もあるということです。
以上のことを踏まえて「一部じゃない」という言葉を考察していきます。この言葉を支援員側が言い放つのは、前述したとおり、支援員自身が利用者の一部になる恐れを感じて、舐められたくない、飲まれたくないという気持ちになることが背景にあります。ただ、この言葉を飲み込む支援員もいるでしょう。では、この言葉を言い放ってしまう支援員がいるのはどうしてでしょうか。それは「同じ人間」と考えているからではないでしょうか。要するに、「支援員である自分だって利用者と同じ人間だ。所有物扱いされたら嫌だし、そう思ったら言っていいのだ。対等な関係なのだから。」と考えているということです。
確かに理解できないこともありません。ただ、「一部じゃない」と言い放った相手が利用者であるか、支援員であるかによってその捉え方は全く違います。利用者が支援員に言うのならば、権利要求等と捉えられても不思議ではありません。しかし、支援員が言えば利用者に対する「抑圧」となり得ます。支援員と利用者は力関係上、対等ではない(非対称的な)関係です。支援員が同じ人間だから対等と考えてこの言葉を言い放ったら、力ある立場である支援員が勝つに決まっています。ということは、利用者は「抑圧」され「人権侵害」を受けたことになります。この状況は「力を与える」ことで対等性を確保する義務と責任を果たしているとは到底言えません。また、この言葉を言い放った時に何らかの指導や指示、教育をしたかったのかもしれませんが、その権限に見合う責任も果たせていません。要するに、「一部じゃない」と言い放った末に利用者に自己責任を課したという理不尽さが残るだけです。だからこそ、支援員が「一部じゃない」と言ってはいけないし、そういう言動も取るべきではないのです。
これじゃ、支援員は利用者の一部になってもいいという理屈になるという意見もあるかと思います。しかし、立場がある限り、支援員は「力ある立場」であり、利用者は「力ない立場」ですから「違う人間」に変わりはありません。また、こういう区別の仕方に違和感を持つ人もいるかもしれません。ただ、実際に現場に入っている方ならば、こういう力関係に気づいていないと対応困難な場面がたくさん出ていることに薄々気づいているのではないでしょうか。
ここまで「一部じゃない」と言ってはいけない、そういう言動も取ってはいけない理由について考察してみました。今回は支援員等の「力ある立場」による言動が利用者等の「力ない立場」にどのような影響を及ぼすかを考えていただきたいと思って書いてみました。
ここまで読んでいただいた方に心から感謝申し上げます。