宇宙からの帰還
産後退院前日まで、私はフワフワと現実味のない世界で生きていたと思う。
もともと私はロングスリーパーだった。妊娠してからは途中で目は覚めるものの暇さえあれば寝ていたし、産休中には朝の二度寝と昼寝をこよなく愛していた。
それが3時間待たずに頻回授乳、その合間に、ご飯、シャワー、コロナで面会できないから院内ランドリーで洗濯。息子を愛でることは絶対の日課だったし、とにかく睡眠が足りてなかった。
退院当日。いかに順序よく退院するために、久々に頭をフル稼働させた。
職場で出産したので、病棟にも看護部にもあいさつ周りが必要だったし、当日にしか提出できない書類も沢山あった。荷物もコロナで家族は入れないから一人で動かさなきゃいけない。息子を抱いて帰るには広い病院を、入り口で待っている夫の元へ2往復する必要がある。
あるもこれもと考えていたら、次々にいろんな情報がたくさん頭に入っていって、溢れ出るような不思議な感じがした。アニメとかで見るまさにあんな感じ。
身体もそれまで病棟を少し歩く程度だったのが、階を跨いで動くもんだから、夫の元に、息子と着く頃には汗だくでワンピースが湿っていた。
退院は、産後の不安定な宇宙から現実世界に戻ることだった。
宇宙から戻った私に待っていたのは典型的なマタニティブルーだった。
里帰りで実家に戻ると、息子は久々に泣き止まなかった。いつもとリズムがずれたからだ。吸った後にも足りないと泣いた。
ミルクをあげよう。早く作ってあげないと。
ミルクはどこで作りますか?
そりゃ台所なんですよね。母がその夜、鶏肉を使って晩御飯を作ってたんです。そしたら、私の不注意で、鶏肉のかけらがどうしたもんか哺乳瓶の底についた。一瞬フリーズしたものの、瓶底だけを洗剤で洗ってそのまま飲ました。
それがいけなかった。
カンピロさん。食中毒を引き起こす、たまに世界仰天ニュースで出てくる問題児。
私は泣いた。
息子がカンピロバクターで死んでしまうと本気で思った。夫が泊まる予定でそばにいてくれたから良かったものの、夫の胸の中でおそらく1時間近く泣き続けた。夫に宥め、透かされ、次からは丁寧に育児をしよう、何か気になるなら焦って動かないと約束して、すやすや眠る息子に誓った。
次の日、私はベビーソープと赤ちゃん用食器洗剤とを間違えて、洗剤で息子を洗った。
もう涙は出なかった。