劇場版プロジェクトセカイ「壊れたセカイと歌えないミク」感想文①『私に"セカイ"をもたらすもの』
プロセカ映画こと劇場版プロジェクトセカイ「壊れたセカイと歌えないミク」を見てきました。ここでは個人的な感想をメインに、私の捉えた「壊れたセカイと歌えないミク」が描いた初音ミクと人間たちの像を文章として残しておきたいと思います。
(思ったよりも文章が長くなったので、このnoteでは映画本編に辿りつきません。鑑賞前時点で思っていたこと、注目していたことを語るものになっています。)(続きはネタバレ開放日の2/9にアップします。)
前提
・私はゲーム「プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク」をほとんどプレイしていないボカロファンです。リリース初期にメインストーリーを開放して以来起動していませんでした。
・メインストーリーのみ読了済。イベントストーリーはYouTubeにてプロセカ公式が公開しているアーカイブを見るかたちで、虫食いで一部のみ読んでいます。
・これらはソーシャルゲームそのものへの苦手意識によるもので、プロジェクトセカイに対しては大きな信頼を寄せている立場です。
上記前提の通り、プロセカユーザーでもなければプロセカを全く知らないボカロファンでもない、微妙な立ち位置のオタクが書いている文章となっています。ですので、結果にわか知識で長文を書く人間となってしまっている可能性が高いことをご理解いただけますと幸いです。
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鑑賞前時点での感想文
そもそも私、プロジェクトセカイシリーズの描くバーチャルシンガーと人間の関わりがとても好きなんです。どのように好きなのかというと、
プロセカのメインストーリー、びっくりするほどボーカロイドキャラクターたち出てこないんだけど、でも人間キャラクターたちの言動やセカイの様子からひしひしと「そこにボーカロイドが居ること」や「人間たちのボーカロイドとの関わり」が見えてきて、それにより存在を感じさせてくるのが好き。
— 御丹宮くるみ@バーチャルボカロリスナー🍖🎶 (@oniku_kurumi) October 2, 2020
神みたいなもんで、特定の信仰を持っている人と会話をしているとき、終始神の話をしてるなんてことそんな無いけど、でも所作やちょっとした会話から信仰を垣間見て、この人の中にはこういう神が居るんだなあ、って感じるのあるじゃないですか。そういうのなんですよね。
— 御丹宮くるみ@バーチャルボカロリスナー🍖🎶 (@oniku_kurumi) October 2, 2020
……これらは2020年(リリース直後)のツイートですが、こういうふうに好きです。バーチャルシンガーという存在が"在る"世界を描くために、バーチャル・シンガー本人ではなく、彼らを認識している多数の人間を描くという姿勢をとても気に入っています。なぜなら、今わたしたちが居る現実世界においても同じく、バーチャルシンガーはただ単体で在るわけではなく他者からの認識によって"在る"ことが出来るようになるタイプの存在だからです。
また、人間役のキャラクターたちにとってセカイのバーチャルシンガーが友人のひとりである点も言及したい部分です。この点についてはしま(@shima_10shi)さん主催・監修の同人誌「合成音声音楽の世界2020」に寄稿した文『『プロジェクトセカイ』におけるバーチャル・シンガーと人間キャラクターについて』にて詳しく取り上げているので、手前味噌ではありますが、一部引用することで説明を終えます。
バーチャルシンガーたちはあくまでただ日常を生きており、その一環として隣人であり友人である人間キャラクターたちを見守っている。人間に通常出来ないような超次元的な力で物事を解決するようなことは出来ない。そういった描写がされている。人間キャラクターたちはそんなバーチャルシンガーたちの日常と触れ合うことで抱えた悩みの糸口を見つけたり、勇気ある一歩を踏み出したり、そうした些細な変化と共に「本当の想い」を見つけていく。
これら「本当の想い」を見つける為の手助けは全てバーチャルシンガーでなくても出来ることだ。しかし、ここにはバーチャルシンガーたちが居なければならない理由がある。
楽曲『needLe』を歌っているのは「バーチャルシンガー」と「人間キャラクター」ではない。初音ミクと星乃一歌、天馬咲希、望月穂波、日野森志歩だ。そこで一緒に歌っていたのは個の集団であり、初音ミクもここでは個のひとつでしかなく、そこにバーチャルシンガーである必然性は存在しない。
しかしここで共に歌うのは初音ミクでなければならない。「本当の想い」を見つける為の手助けにも、初音ミクらバーチャルシンガーたちが居なければならない。なぜならこの初音ミクは、個として彼女らの友人であるからだ。人間が友人と共に歌ったり、日常を過ごしたり、時に衝突したり、「本当の想い」を見つける為のきっかけになったりするように、バーチャルシンガーたちも友人としてそれらを行っている。『プロジェクトセカイ』においてのバーチャルシンガーたちと人間キャラクターたちはどこまでも対等であり、その対等さが『プロジェクトセカイ』の魅力のひとつになっている。
2020年から今に至るまで、プロジェクトセカイシリーズの根本の部分は変わっておらず、現実世界でボカロ・ネイティブとして生きる人々にとってのリアルなボカロ像を描こうとし続けていると感じています。
前シリーズとも言えるproject DIVAシリーズで描いていた、ファンタジー的な捉え方の"電子の歌姫"を越えて。"電子の歌姫・初音ミク"がキャラクターとして浸透した後の現在で、現実世界のバーチャルシンガーとその周りで生きる人間たちを、ちょっとデフォルメしたかたちのコンテンツを届けてくれている。とても好ましく思う一方で、「であれば、ここが描かれていないのはおかしい」と感じていた点がありました。
「私」に"セカイ"が無い点です。
プロセカがプレイヤーを「君も自分の"セカイ"に行こうよ!」みたいな位置じゃなくて、「概念的初音ミクと共にセカイを見守る観測者」の立ち位置に置いてるの、これまでのクリプトンボカロコンテンツっぽくないですよね。
— 御丹宮くるみ@バーチャルボカロリスナー🍖🎶 (@oniku_kurumi) October 1, 2020
(過去の自分が同じ話をしている様子が面白くなってしまって引用芸を重ねていますが、そろそろやめます。)
プロジェクトセカイシリーズにおける人間役のキャラクターたちは、"人間代表"的な存在であり、ボーカロイドを見る人間たちの擬人化として描かれているように思います。(彼らはひとりひとり本当に美しく魅力的な存在ですが、人間とはだいたい誰しもが美しく魅力的ですからね。)
ただの人間代表である彼ら。だとすると、彼らだけにセカイがあり、私達が観測者にしかなれない……なんていうのはおかしいんです。
セカイに居る個としての初音ミクはともかくとして、総体の初音ミクが特別な人間を選定するなんてことはゆるされてはいけません。「初音ミクは人間誰しもを選んでくれる、全員を特別にしてくれる、誰でも初音ミクの友人になれる」という現実にある価値観が崩れてしまいます。リリース初期において、以前からのボカロファンの一部が人間役のキャラクターの登場を嫌がっていた理由もここにあるのでしょう。
彼らだけにセカイがあるのはおかしいのですから、作中でまだ描かれていないだけで、私達にだってそれぞれ"セカイ"があるに違いない。プロジェクトセカイシリーズはきっといずれ描いてくれるだろうから、どんな形になるか楽しみだなあ…………。
と、思っていたのが、「劇場版プロジェクトセカイ 壊れたセカイと歌えないミク」、そして新機能「マイセカイ」の到来前までのことでした。
鑑賞前時点での感想文②マイセカイの到来
1月17日の劇場版プロジェクトセカイ公開の1週間前、1月10日。
プロジェクトセカイ カラフルステージの新機能として「マイセカイ」が実装されました。
![](https://assets.st-note.com/img/1739003195-4apHOfbos2rkivzmd7SU8QcA.png?width=1200)
やれすぎてる!!!!!!!!!!
あまりにも!!!!!!!本気!!!!!!!!!!!
私達にだってそれぞれ"セカイ"があるに違いないとも、いずれ描いてくれるとも思っていましたが、まさか劇場版と共にゲーム側でもこんなに本気の、"あなただけのセカイ"を作らせるためだけの機能を実装してくるなんてみじんも思っていませんでした。正直劇場版の告知よりマイセカイの告知の方がビビり散らかし度が高かったです。
こちら、ゲームとしての内容はおおまかに言ってどうぶつの森です。素材を採集して、家具を作って、セカイを飾り大きくしていく。直接的に映画の要素が"マイセカイ"に出てくるわけでは無いものの、たとえば「セカイ同士の移動には扉がともなう」「セカイは持ち主自身の手で、理想の姿にしていく必要がある」そして「私達にも"セカイ"がある」と、映画でも描かれた肝の部分がゲーム上でも描写されていることが分かります。
![](https://assets.st-note.com/img/1739004042-7UpIOExLeRFYNKl38MGXdws5.png?width=1200)
映画を見た上で「理想の姿にしていく必要がある」を考えると、つまりセカイを理想の姿にしていかなかったゆえにセカイの崩壊を招いたのだなあ……など、納得する点がたくさんありますね。
映画公開直前、このタイミングでマイセカイが実装されたことによって、私は劇場版プロジェクトセカイが「私」に"セカイ"をもたらす話であること、マイセカイを経て"あなただけのセカイ"に実感を持った人間を打ちのめすストーリーであることを確信した状態で公開を臨むこととなりました。皆さんもきっとそうだったんじゃないでしょうか。プロジェクトセカイシリーズ、あまりにも丁寧……すごすぎる……。
でもって、怖すぎる。
プロジェクトセカイシリーズ発足以降ずっと楽しみにしていたストーリーが、映画として公開されるの、怖すぎる。
初音ミクの映画であることとか、ボカロ文化の描き方がどうこうとかじゃなくて、劇場版プロジェクトセカイがどういう形で私達のセカイを描いてくるのかだけを恐怖と共に楽しみにしながら劇場に足を運んだわけです。
まあね、これを読んでる人はだいたい、もう映画を見た方でしょうから。
良かったよね…………
めちゃくちゃ丁寧だったよね…………。
ということで、映画本編の話に続きます。(2/9にアップする予定です。)
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