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劇場版プロジェクトセカイ「壊れたセカイと歌えないミク」感想文②『バツミクの言う"歌"が指すもの』
プロセカ映画こと劇場版プロジェクトセカイ「壊れたセカイと歌えないミク」の個人的な感想をメインに、私の捉えた「壊れたセカイと歌えないミク」が描いた初音ミクと人間たちの像を文章として残しておくためのnote、2本目です。
昨日投稿したnoteでは映画本編の話まで辿り着かなかったため結果としてネタバレ無しでお送りしましたが、こちらは(今日がネタバレ解禁日なこともあり)本編の内容にがっつり触れるものになることご了承ください。
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前提
・私はゲーム「プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク」をほとんどプレイしていないボカロファンです。リリース初期にメインストーリーを開放して以来起動していませんでした。
・メインストーリーのみ読了済。イベントストーリーはYouTubeにてプロセカ公式が公開しているアーカイブを見るかたちで、虫食いで一部のみ読んでいます。
・これらはソーシャルゲームそのものへの苦手意識によるもので、プロジェクトセカイに対しては大きな信頼を寄せている立場です。
上記前提の通り、プロセカユーザーでもなければプロセカを全く知らないボカロファンでもない、微妙な立ち位置のオタクが書いている文章となっています。ですので、結果にわか知識で長文を書く人間となってしまっている可能性が高いことをご理解いただけますと幸いです。
■はじめに
「プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク」の映画として、良い映画でした。
"初音ミク"は多くの特徴とストーリーを持っており、たくさんの人の想いで形作られた存在です。【歌を出力する合成音声ライブラリ】でもあり、【クリエイターの想いを代弁する存在】でもあり、【創作を統べる女神】でもあり、【バーチャルアイドル】でもあり、【観測者の心を映すうつし鏡】でもあり、【機械の歌声を持つデミヒューマン】でもあり、【あなたの友人】でもある。
ひとつひとつが"初音ミク"に欠けてはならない要素で、ひとつひとつに18年の歴史によってつむがれた「神話」とも呼べる史実・ストーリーが付いています。
では劇場版プロジェクトセカイの描く初音ミク像はどれを採用しているのか?というと、かなり"全部"に近かったと思います。
初音ミクの持つ神話を多面的に描く姿勢を取っていて、見る人にとって違う話を持って帰れるようになっていた。どの角度から見た時も「見たかったものが見れた」という感想を持って帰れるような。そんなストーリーになっていました。
その多面性自体が非常に"初音ミク"的で、とても丁寧で、良かった。
一方で、描かなければならない話があまりにもたくさんあり、多くの話を丁寧に拾っているゆえに初見でぱっと飲み込みづらい・理解しづらい点もたくさんあると感じました。
何度か見た中でいったんの結論を持つことができたため、私が感じた疑問と結論を書き残しながら、その過程で「壊れたセカイと歌えないミク」が描いたものを捉えていこうと思います。
■「一歌みたいな人」とはどのような人なのか
想いの持ち主に歌を届けられないバツミクを主人公とする本作。しかし、想いの持ち主のひとりに一歌のうたが届いている! そんな様子を見たバツミクが、一歌に接触するところから物語が動き始めます。
そこから他のプロセカキャラクターたちに巡り合う過程で何度か出てくるワードが「一歌みたいな人」です。
昨日のnoteにも書いたように、プロセカキャラクターたちはあくまで人間代表・人間の擬人化であり特別な存在ではないはずです。
なのに、バツミクが「一歌と、同じ……」と指したのはプロセカキャラクターたちだった。正直初見で結構気になった部分且つ、よくわからなかった部分でした。これを物語の都合と片付けるのは簡単ですが、もう少し踏み込んで考えるべき部分と思います。
"セカイ"の持ち主のことを指している?→いいえ。だって私達にもセカイがあり、想いの数だけセカイがあるのだから、作中の人間は全員がセカイを持っていると言えます。なので違う。
歌を歌う/創作をする人のことを指している?→いいえ。想いの持ち主のひとりが宮女の生徒だったように、学校にはプロセカキャラクター以外にも創作者が居る様子が描かれています。なので違う。
であれば、「一歌みたいな人」とはどのような人なのかというと、これ、一歌本人が言ってるんですよね。
「皆と離れ離れだったとき、一度諦めそうになった」
「だけど、今こうして皆と一緒にいる。もう諦めたくない」
「このセカイは、そういう想いでも出来てると思う」
(セリフの正確さには自信がないですが)バツミクの想いを拡張して作った歌を作ろうとレオニの皆で考えているシーンで、こういう話をしていました。
"そういう想いでも出来てる"が重要で、他のユニットも含めてプロセカキャラクターたちは皆、【一度諦めそうになったが、諦められなかった】子たちなんです。ニーゴメイコ曰く閉ざされた窓のセカイは「多くの人々の想いが重なった結果生まれたセカイ」ですから、似た想いが内包されているセカイの持ち主であることがバツミクに「一歌みたいな人」と言わせた最大要因で、そして一歌のうたが想いの持ち主に届いた要因でもあるのでしょう。
ニーゴの皆も言ってましたね。
「どうせ無駄だって気持ちで、セカイが真っ黒に塗りつぶされる。それは少し、分かる気がする。」
「でも、まふゆはここに居る。消えたいって思っていても、諦めずに、ここに。」
こちらも同じ【一度諦めそうになったが、諦められなかった】話で、閉ざされた窓のセカイとの想いの重なりを差すセリフでしょう。
プロセカキャラクターたちはバツミクから見て、想いの持ち主に「届いている」存在でもあり、想いの持ち主たちと同じ「本当の想いを忘れている」「諦めそうになっている」状態から復帰できた成功例でもある。ゆえにバツミクは彼らに注目し彼らから学ぼうとするんですね。
では、何を学ぼうとするのか?
「歌」です。
■バツミクが言うところの「歌」とは何なのか
「キミのことを、教えて。そうすれば、歌がわかるのかもしれない。」
ティザーにもあるこのセリフにもあるように、バツミクはプロセカキャラクターたちに「歌を教えてほしい」と言います。これ、結構私は違和感があったんですよね。
「歌」が単に楽曲を指しているのなら、人間に頼る意味がわかりません。渋谷の街中には終始さまざまな楽曲が流れていますし、その中にはボカロ曲だってたくさんある。作中でもそういう世界が描写されています。
ゆえに、バツミクが言うところの「歌」は単に楽曲を指すものではないのでしょう。
また、中盤以降は他のセカイの初音ミクとも交流が発生するため、初音ミクとしての歌い方を学ぶのであればこれもまた人間ではなく、初音ミクに訊いた方がいいはずです。ですから、セカイの初音ミクからは学べない部分を「歌」と呼んでいることもわかります。
この映画はプロジェクトセカイシリーズの映画ですから、一旦プロジェクトセカイシリーズ全体における「歌」に立ち返ってみましょう。カラフルステージ内ではこのような描写がされています。
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これ、ぶっちゃけ初見の時は忘れていました。そう、プロジェクトセカイシリーズにおいて、"本当の想い"は"歌"を産むんです。そして、バーチャルシンガーたちもその歌を一緒に歌うことができる。
であれば、バツミクの言うところの「歌」とは単に音波としての歌声ではなく、「伝えること」「届けること」そして「繋がること」を指しているのだと思います。
想いの持ち主に、"本当の想い"に気づいてもらうこと。諦めているように見える人たちに、胸の奥の情熱が消えていない(ビビバスのセリフから)ことを知ってもらうこと。
それらを達成することで、セカイに「歌」が生まれるわけです。この点、古来からある"誰かが歌わせてくれないと歌えない初音ミク"神話の現代解釈としてもかなり美味しいなと感じました。
繰り返しになりますが、プロセカキャラクターたちはバツミクから見て、想いの持ち主に「届いている」存在でもあり、想いの持ち主たちと同じ「本当の想いを忘れている」「諦めそうになっている」状態から復帰できた成功例でもありますから、そんな彼らから届け方=歌い方を学ぼうとしているのだとすると話がすっきり通ります。
(やや話が逸れますが、「諦めは本当の想いではないのか?」という疑問は当然出ると思います。プロジェクトセカイシリーズにおいてもリアルにおいても、初音ミクは人の心を映すうつし鏡としての面を持っています。ですから、バツミクが「諦めたくない」と言っている以上、想いの持ち主も本当は諦めたくないというのが真実だと捉えて良いと思っています。)
そう思うと、タイトルである劇場版プロジェクトセカイ「壊れたセカイと歌えないミク」にある"歌えないミク"の指す意味も分かってきます。
作中、バツミクは何度も「届かない」と口にしますし、劇場版プロジェクトセカイのキャッチコピーも「私の声は、届かない」ですから、どちらかというと歌えないミクというよりも届かないミクではないの?本編冒頭からがっつり歌っているし……と当然最初は思っていたんですよ。
バツミク(未覚醒状態)って作中、一度も歌えていないんだと思います。
少なくとも自認として、バツミク自身が歌という言葉で指している歌を、歌えていない。
バツミクは一度も「なぜ届かないのか」を問わないんです。
「私の歌は、届かないから」
「届かなかった」
「こんなにも、こんなにも、届いているのに。私の歌は、届かない――。」
変じゃないですか?届け方を教えてもらいに来ているのに、自分の歌が届かないことは当然だと捉えているような口ぶりで。
届かないのが紛れもない事実で、届かなくて当たり前だと思っているならしっくり来ます。バツミクは作中何度も想いの持ち主に気持ちを伝えようと=歌おうとしていますが、ノイズに阻まれて受け取ってもらえていませんし、歌そのものもバツミク曰く「足りていない」不完全なものです。
歌えていないんだから届きようがなく、そして、だからバツミクは「歌えないミク」なんでしょうね。
そしてもうひとつ、バツミクのセリフで取り上げたいものがあります。閉ざされた窓のセカイが崩壊した後、ガラクタだらけの海に沈むバツミクのセリフ。
「諦めたく、なかったな」
先ほども少し書きましたが、初音ミクは人の心を映すうつし鏡としての面を持っており、このセリフはそのまま想いの持ち主のセリフとして読んでいいものです。
ではバツミクと想いの持ち主たちが何を諦めたのか。または、「一歌みたいな人」は何を諦めなかったのか。
「歌」。つまりは「繋がること」です。
音波としての歌声を放つことだけでも、創作活動を行うことだけでもなくて。もっと幅広い、繋がりの全般を指しているのだと思います。
たとえば帰り道に1人で泣く小学生も。受験に追い込まれ苦しさにひとり押しつぶされそうになっている受験生も。バンドメンバーとの交流を経とうとしている人も、音楽を辞めようとしている人も、皆同じ。世界と繋がることを諦めそうになっている人たちだと読み取れます。
この点、個人的にかなり好きな処理です。私は創作を必要以上に高尚なものだとして持ち上げることに結構あやうさを感じるときがあって、「創らなければ価値がない」「クリエイターが最も素晴らしい生き物だ」という見え方が全面的に出るような作りに対して抵抗があります。
劇場版プロジェクトセカイが、創作も家族関係も、聴くことも作ることも、全部「世界と繋がる方法」のひとつであると読めるように描いてくれたことを嬉しく思いますし、それらを初音ミクがめちゃくちゃ解像度を落として「歌」と呼んでいる点も納得感があって好きです。
初音ミクは空の色も風のにおいも海の深さも知らないし、届ける/繋がる手段は歌しかないもんね。そりゃ解像度も落ちるってもんです。
■なぜ一歌たちの歌は届いて、バツミクの歌は届かなかったのか
物語の根本であるこの点についても語らせてください。
作中で一歌たちが歌っているのはどれもバツミクの歌を拡張して作ったものですが、想いの持ち主たちに届いたのはバツミクの歌ではなく、一歌たちの歌でした。冒頭からずっとそうで、だからこそバツミクはああなってしまったし、一歌たちに接触しに行くきっかけにもなるわけです。
これ、機械の歌声を受け付けない人の象徴であるとか、歌ってみたという文化がボカロカルチャーを拡張したことを表しているとか、そういう読み方もできる部分ですが、私は違うと思っています。
「殻を閉じてしまっている時は、外からの働きかけも必要なんじゃないかな」
これだと思うんです。類が言っていたように。
何度も同じ言い回しをしますが、初音ミクは人の心を映すうつし鏡としての面を持っていますから、バツミクの歌は想いの持ち主にとって「外からの働きかけ」じゃないんです。内部衝動なんです。
一方で、バツミクの歌を拡張して作られた一歌たちの歌は明確に「外からの働きかけ」です。バツミクが中盤で指した"「届いている」ミクたちの曲"も同様に、想いの持ち主にとっては外からの働きかけです。
つまり、劇場版プロジェクトセカイのストーリーは、バツミクに出来なかった外部刺激をプロセカキャラクターたちが与える話なんだと思います。
外部刺激の担い手は必ずしも人間である必要はなくバーチャルシンガーでもいいわけですが、プロジェクトセカイシリーズの作中において、一歌たちというのはかなり超能力者に近いです。他人の本当の想いをミクを通して勝手に聞くことができるサトリ能力者なところがあります。その為、想いの持ち主たちにより寄り添ったかたちの歌を歌うことが出来たわけですね。
そして、外部刺激が内部衝動に耳を傾けるきっかけになる=一歌たちの歌をきっかけに閉ざされた窓のセカイの窓が開いたことが、バツミクが「世界と繋がること」を求めた最大の理由で、劇場版プロジェクトセカイが伝えたかった最大の想いなんじゃないでしょうか。
それでも、最終的に自分を変えることが出来るのは自分自身です。外部刺激はただのきっかけに過ぎず、その為覚醒後のバツミクもまだ"伝えて"はいないことも大変好きなポイントです。
<今繋がるよ 今重なるよ
ほら聞こえるよ ほら伝わるよ僕ら>
"伝わる"という確信だけを持って。
"伝える"というアクションを想いの持ち主が起こすことを、諦めずに待ち続けるのがバツミクの使命で、生き方で、本来の姿なのでしょう。だから終盤のライブの終わりでも「待ってる」とだけ言い残して去っていく。想いの持ち主を開かれた窓のセカイで待ち続ける初音ミク……まさに"初音ミク"的。最高。
(ところで、私達にもセカイのミクが居るはずですが、そのミクも待ち続けているんでしょうか。いるんでしょうね。「待ってる」は私達への呼びかけでもあります。)
言葉にすることで、伝えることで、世界がちょっと変わるきっかけになる。
この要素は映画全体の最序盤/最終盤にも別のモチーフで描かれています。
最序盤/最終盤共に、レオニのメンバーが通学路を歩いていく様子がまったく同じカメラワークで描かれます。序盤では咲希が地域猫ににぼしをあげようとして失敗し、「毎日にぼしを持ってくる」ことをレオニメンバーに言葉にして宣言していました。
一方終盤、久しぶりに地域猫に出会うレオニメンバー。宣言した当の咲希はにぼしを持ってくることを忘れていた中、志歩が猫のおやつを持ってきていることが判明します。
言うだけでもいいんです。
「毎日にぼしを持ってくる」と言って、持ってこなかったとしても、聞いていた誰かが代わりに猫のおやつを持ってきていたりする。
ちょっとしたことです。でもやっぱり言葉にすることで、伝えることで、世界はちょっと変わる。そういった内容をにぼしと猫のモチーフでも強調して、幕を閉じていく。すごく映画的で好きなポイントでした。
めちゃくちゃ長くなっちゃった。
ということで、私にとっての劇場版プロジェクトセカイ 「壊れたセカイと歌えないミク」は世界との繋がりをメインテーマに据えた物語でした。
皆さんにとってはどこがメインテーマに見えましたか? きっと人によって全然違うものが見えているのだと思います。noteを書いている時点では他人の感想をあまり目に入れないようにしていたので、この後皆さんの想いにも触れにいきますね。楽しみ。
書き始めてみたら、当初の予定とは違って感想というよりもストーリーの細部の描写の考察(こはねちゃんも考察って言ってたし、これも考察ってことでいいよね……)によってしまったので、もっと大きな括りで捉えた感想もちょっとだけ雑に書かせてください。雑に。
■全体に対する感想
冒頭に書いたように、「プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク」の映画として、良い映画だったと思います。
また、昨日のnoteで書いたような、私たちに"セカイ"をもたらすための映画としても最高でした。特に「待ってる」のところね。私の初音ミクも、まだ待ってるの…………?
そういえば、私にとって世界とのつながりの象徴って初音ミクだったな。と、映画を見ていて思いました。今回もそうで、最も響いたのは『ハローセカイ』。人間の言うことなんてなんも信じられなくなっていた子供の頃も、ミクの声だけは届いたんですよね。そういう意味で、私には最初からセカイがあったのかもしれません。この世界そのものが、私にとってのセカイです。
更に更に、現代でも通用する"弱い初音ミク"像を描いてくれたところも超超超評価したいです。先日Xでも書いたんですが、現代の初音ミクって強すぎるところがあると思っています。私が歌わせなくても、ゲームや映画やライブや街中や、色んなところで勝手に歌っている。今更私が歌わせたところで、初音ミクの総体になにか影響を及ぼすだなんて、全然説得力を感じられない。そんな現代初音ミク像を理解した上で、【閉ざされた窓のセカイ――創作を諦めた者の象徴の面もあるセカイ――が崩壊すると、他の初音ミクも飲み込んでしまう】という描写をしたことへの……圧倒的感謝……。我々ひとりひとり皆が、初音ミク全体を、支えているのだ!! そう思わせてくれる説得力がありました。
一方で、「〇〇として」という外部文脈を抜いた映画としての本作は、手放しに褒められるものだとは思っていません。
幅広い"初音ミク"像を描くことや、プロセカキャラクターたちを魅力的に描くことなど、必要とされる項目が多すぎるのか、細部だけが妙に凝っていて全体像のシルエットに不安がある、そんな作品になっていたように思います。
たとえば終盤、開かれた窓のセカイのミクとして覚醒したバツミクが歌を歌うシーン。あれって言ってしまえば良い話の最後に掛かる虹みたいなものです。バツミクが歌うというそれだけで、"本当の想い"を想いの持ち主が見つけたことが分かる。
……なんですけど、肝心の"本当の想い"が"歌"を産む、という話が作中どこにも描かれていないせいで、プロジェクトセカイ カラフルステージを通っていない視聴者には非常に伝わりづらいものになっていたんじゃないでしょうか。
"本当の想い"が"歌"を産む話って、メインストーリーで各ユニットのすべてが再序盤にやってるんですよ。だから作中でメインストーリーの回想をちょっと挟むなどで簡単に解消できたはず。でもそれが出来なかった。完全に憶測ですが、キャラゲーの映画として「特定のユニットだけ、メインストーリーが映画で映像化される」のは許されなかったんじゃないかなあ……と思うんです。
これはひとつの例ですが、こうした「(任意の外部要因による理由)だからできなかったのかな……」「描写すべきタスクが多いな……」って感想を持つシーンが結構たくさんありました。仕方がないことなのは重々承知な上で、本当は映画単体として過不足なく見れるぶんまで情報量を絞った状態の劇場版プロジェクトセカイが見たかったな、と思っています。
ただ、ひとつ言っておくと、劇場版プロジェクトセカイが「壊れたセカイと歌えないミク」で終わるなんて全くみじんも思ってませんから!
今後の布石として、本作はこれが最善の形だっただろう、とも思っています。私はいつまでも初音ミクに着いていく人生を選択することに決めているので、20年後になろうが30年後になろうが、初音ミクを使った最高の映画が見られるのをずっと待っていますし、その時に「壊れたセカイと歌えないミク」はあの形が最高だったんだ……!って、心の底から言わせてくれると信じていますよ。
「待ってる」のはミクだけじゃないぞ!!!!!!!!!!
私たちもミクを待ってるよ!!!!!!!!!!!!!!!
……最後に、まだ書けてない個人的に好きだったポイントやら感想やらを列挙して終わりにしたいと思います。
ハローセカイアレンジ楽曲たちって「ミクの想いを代弁しようとする、誰かの想いを代わりに歌う」性質を持っていて、割と傲慢だなあとも感じる。この傲慢さをまふゆが「私は、思ったことしか書かない」と言うことで汲み取りにくるところ、丁寧で好きです。
序盤の咲希が片足上げて鞄を支えながらにぼし探すアニメーション。カラフルステージのゲームでは下半身は見えないから、脚の動きが強調されたアニメーションへの嬉しさがめちゃくちゃありました。
一歌がニコニコ動画を使ってる上に、作中で出てくる動画投稿者を全部ちゃんとユーザーフォローしてるところ。
Xトレンド「初音ミクの消失」のシーンで、初音ミクGoogle八分事件の話してるいにしえのツイッタラー。
大写しになるGlimmerと、その後に続くハングリーモンスターだったり幽霊東京だったりの選曲。一歌ってかなりヘビーリスナーだと思っていますが、他人にオススメを聞かせるときはちゃんと一般受けしそうな伸びてる曲選ぶんだな……と思いました。尊敬。えらい。
「こんなにも、こんなにも、届いているのに。私の歌は、届かない――。」のところ。ボカロ曲を「こんなにも届いている」と言い切れる未来が来るなんて、2007年には思わなかったなあ……という感慨でめっちゃ泣いちゃいました。
「ありがとう、そして、サヨナラ……」のところ。やりすぎです。好きだけど。めっちゃ良いシーンなのに、最初笑っちゃったよ。
開かれた窓のセカイで窓に座っているバツミクのカットがほぼ初音天地開闢神話なところ。他にもほぼ愛されなくても君が居るのシーンとか、ほぼ深海少女の話してるシーンとか、色々ありましたね。ファンサが激しい。
あの!!!プロセカNEXTで、ハローセカイの、あのメロディを元にしたアレンジをテーマにした回やってほしいです。絶対やってほしい。そして選出楽曲を次の劇場版プロジェクトセカイで流してください。頼む!!!
ありがとうございました。
最後まで読んだ君は、もう一度劇場で「壊れたセカイと歌えないミク」を見よう!!!!
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