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人間の格 感性の力 超サマる

芳村思風先生の「人間の格」と「感性の力」は今を生きる人間のバイブルなのではないかと思うぐらい名著過ぎて、古典入りした。

そんな難解な哲学を誰にでも分かるようにかつ今を生きる人類の羅針盤となるような先生の哲学を超サマってみた。このサマること自体が自分の血となり肉とする行為だと思っている。

完全な存在である「神」の登場

事のはじまり、そもそも「神」は存在するのかどうか。この点については「神」が現実に存在するかどうかは置いておいて、「神」の存在を「人間」が意識したことで「神」が出現することになるが、一方で「神」の存在を否定するには「神」の存在を肯定しないとしけない。この瞬間に絶対的な「神」という存在を我々は認識することになる。どの「神」なのか?はまた別の議論になるが、まずは絶対的な存在である「神」を意識することから「人間」は避けて通ることは出来ない。人類史を紐解くと、この「神」の存在、つまり人類にとって「見えざる大いなる力」を認識しはじめた時期があり、それ以降、「神」を意識した祭壇や宗教行為がはじまっているのはとても興味深い。

不完全な存在である「人間」

完全な存在である「神」が誕生したことで、「人間」はある意味「不完全」な存在であることがはっきりすることになる。そう「人間」は、そもそも「不完全」な存在であり、生き物なのである。但しこの「人間」には「理性」というものがあり、「神」の存在を導き出したり、科学や哲学のような世界を創り出す「偉大」さも兼ね備えた不思議な「不完全」な生き物なのだ。「動物」には「理性」はないから、「人間」だけが持ち得る「理性」というのは強力な「不完全なツール」である。

「理性」の暴走と狂い始めた歯車

「人間」はこの強力な「不完全なツール」である「理性」を長い月日を掛けて磨き続けてきたことで、ある種「理性」は森羅万象あらゆる物事を解決することができる「完全なツール」と錯覚してしまった。原点に立ち返るとわかるのだが「不完全」「人間」が持つ「理性」で全てを解決しようとすると、そもそも「理性」「不完全」なものなのだから大きな「歪」を生むことになる。それが昨今米国の警察官が起こした事件や宗教、国との争いの根底にあるものだ。つまり「理性」で考えてその「人間」が掲げる「正義」は相手にとっては「正義」ではない。「理性」ではこの世界の問題を解決することが出来ないことは戦争、殺人、心の病、あらゆる問題がそこらじゅうに存在している現実を見れば明白であろう。

「不完全」な「人間」だけが持つ素晴らしさ

では「人間」の存在意義は何か。それは「不完全」「人間」にしか出来ない「より以上」を目指すこと。「不完全」「自分」を受けいれることが出来れば「謙虚」になり、「より以上」を目指すことが出来る。「人間」が生きるということは完全な存在である「神」に無制限に近づこうとすることが出来ることである。到達することはないわけだから、無制限にいくらでも「より以上」を目指すことが出来るのは唯一無二「人間」だけが成せることであり「人間」本来の素晴らしさであり、「本質」なのだ。「不完全」であることを受け入れることができれば「理性」で相手を攻撃するのではなく、「感性の力」で相手を包み込むことが出来るようになる。「理性」では何も解決することが出来ないことを理解するのがまずは「不完全」「人間」に必要な第一歩なのかもしれない。

人生とはそもそも苦行であるからバラ色なのだ

「不完全」「人間」を受け入れることで「人生」が楽になるのかどうか。それは「No」である。そもそも人生は「七転八倒」であり「より以上」を求めて自己研鑽するのだから楽なわけはない。それこそ「死に物狂い」で死ぬまで生き続けることが「人間」「宿命」だ。だけれども、「人生」「心底辛いもの」だと分かることが出来れば、「人間」「どん底」から「より以上」を目指して進むことが出来る生き物なのだから、きっと「人生」は毎日が「バラ色」に感じることが出来るだろう。って感じです笑

「より以上」を目指して人生を謳歌しましょうね。
では皆さま、良き週末を。

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