マズローとケンリックの欲求モデルから考える現代の原動力③ -現代の欲求の課題と未来を考える。
こんにちは。季節の移ろいは早いもので、今年もあと40日弱。何かと忙しい年末ですが、いかがお過ごしでしょうか?この時期になると忘年会のお誘いもちらほら入ってきますね。今年は一昨年、昨年と比べ、比較的そうしたお誘いが多くなっている気がします。どちらかと言わずとも、私はお酒や食事の席が好きですので、楽しみです。この「飲みたい」というモチベーションもどこからやってくるのでしょうか。
ということで本日も欲求のお話です。前回は
というテーマで現代の欲求事情と生理的欲求の過剰な満たされ具合、そして現代の欲求が行き着く先という流れで書き進めてまいりました。今回はこの流れから現代の課題、そして未来を考えて綴っていこうかと思います。これからの欲求が行き着く先はどんな未来か、そんな想像をしながら綴って参ります。欲求編、第3章、どうぞお付き合いください。
本日のゴール
正解が存在しない時代
前回”現代の欲求が行きつく先”として「より良く生きる」がキーワードになるのではないか、と綴りました。ただ「生きる」でもなく、「良く生きる」でもなく、"より"良く生きる。生理的欲求が満たされた現代においては生きることそのもの自体が目的となり得ず、どう生きるかを問われており、そして、その生き方はより自由になってきていると感じます。
少し話は根源に戻りますが、生き方、というのは欲求の影響を強く受けているかと思います。生理的欲求が満たされていない狩猟時代にトレーニングをする人がいなかったように、「〜したい」という欲求こそ、その人の生き方を左右しているのかもしれません。そして、その生き方の型が無くなり自由になっているということは、欲求の形も自由になっているということ。マズロー、ケンリックのような言わば欲求の型は現代では通用しなくなっているのではないでしょうか。
何が欲求の最上位にくるかは人それぞれですし、もはや最上位などない全てがフラットで全て重要だよね、という考えもできてくるかと思います。出世しなくても、お金がなくても、世間から認められなくても、田舎に住んで安心と安全が担保できていれば最高だ、と思う人もいれば、多少生活が苦しくても無理をして都会に住み、高級車を乗り回し、タワーマンションの最上階に住むことが最高だ、と感じる人もいると思います。
これが正解、ということはありません。生理的欲求というライフラインが確保された上では、いかなる価値観も全てが正解となり得ます。そして、全て正解ということは正解が存在しない、ということと同義になります。自由、というと聞こえはいいですし間違いなく楽しいのですが、全ては自分次第。正解がある場合はテンプレートを穴埋めしていけばなんとなくいい感じになる。一方で、正解がない場合は真っ白なキャンパスに「なんでも描いていいよ、自由だから。」と言われて、全て自分の意志により描いていかなければならない。
現代の欲求の課題
自由で生き生きする人と窮屈になる人
自由という概念は素晴らしいし、僕自身もできれば自由でいたいと強く想います。同時に、自由だからこそ難しい、というのは上で綴った通りです。とは言うものの学校教育では未だに正解を教えて続けていますし、世の理とはこういうものであるという共通見解の上で社会は成り立っています。
いざ社会に出てみると自由という言葉が「自分で考えなさい」という強力な言葉に置き換えられて自由に苦しめられる人が一定数います。一方で、この言葉をポジティブに捉えられたり、周囲のサポートにより、自由とそれに伴う責任のマインドが育まれている人は、大きく羽ばたいていきます。できればこんな形がいいですよね。
この違いは「正解がないことに慣れている」かどうかだと思います。そして、「自分の中での正解を創っていくこと」に欲求を感じられるかどうかが、「より良く生きる」ことに繋がってくるんじゃないかと感じてます。なので、やりたいことがない(欲求がない)という人に対してこれが正解であるという道を示せなくなった現代では、自分の中での正解を育むために何ができるか、その探究力を問われている気がします。なぜなら、欲求がないこともまたその人にとっては正解かもしれないので。
#うーん
#正解がない時代は難しい
やりたくなければやらなくてもいいよね、の怖さ
そして、その欲求はよりパーソナライズされたものとなり、どんな偉人たちの言葉も、どんなに優れたテンプレートも完璧ではなくなる。全ては自由で、全てはあなた次第だから。「やりたくなければやらなくてもいいよね。」でも、その責任もまた自分にあるんだよ、と。中途半端な世の理と、中途半端な自己責任感。そんな時代の狭間にいるが故に、これらを押し付け合ってしまう。
#時代の変わり目は
#いつも不安定
現代の「やりたくなければやらなくてもいいよね。」には一抹の寂しさと見放し感があります。本当にやりたくなければ、やりたくない、という欲求な訳でそれは尊重すべき欲求。一方で「やりたくない」と「やりたいことがない」は正反対で、その裏に隠れている行間こそ現代の欲求の課題かと思います。「やりたいことがないんだけど、やりたいことを見つけたい」のか「やりたいことがないし、やりたくもない」のかは大きな違いであるということ。
そして、前者の欲求を見落としてしまいがちな時代であると同時に、後者のように自由(自己責任)を押し付けられることでやりたくなくなってしまう、こともまた自由の弊害なのかもしれません。
自己完結型の欲求
さらに「分断」により、この流れが加速すると、パーソナライズされた欲求が殻に閉じこもりやすくなってしまいます。外界と分断された自己の範囲内での自由は、その自由の範囲が狭まり利己的な欲求に変換されやすくなります。まさに自己完結型の欲求。そして、誰かと誰かの自己完結型の欲求同士がぶつかることにより、自己と他者の壁はより厚くなり、自身の影響力はさらに縮小されそうです。
影響の範囲が縮小すればするほど、欲求に対するFB(フィードバック)をもらえなくなる。もしくは一方向からのFBになってしまう。必要以上に多様性が叫ばれる社会にも関わらず、ある集団の中で一つの方向性の元で生活を送ることは、選択する機会を失います。影響の範囲の縮小ということは、可能性の範囲の縮小ということに繋がるのかもしれません。
#可能性は無限だと
#信じたい
終わりに
というわけで今回は
というゴールを目指し、正解がない時代である現代の欲求の課題を「見放し」と、それに伴う「自己完結型の欲求」という形で捉えて、綴ってみました。これらがどう、これからの欲求に繋がってくるのか。次回も思考していこうと思います。本日も最後までお読みいただきありがとうございました。OneSelF佐藤でした。
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