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花を水切りするのと同じように

 花を飾るとき、水切り、という行為がある。例えば、バラは水を吸いにくく、水盤の中に水を張り、そこに茎を入れ水の中でパチンと切る。すると水を吸い上げやすくなる。どの花もそうかというと、そんなこともない。買ってきたまま花びんに挿しても全くへいちゃらな花も多い。

 心の中でなんとなくその花を区別していた。茎が柔らかくて瑞々しいものは平気だろうと、長さだけぱちぱちと切って花びんへ。よくあること。

 先日庭にサワサワと咲いていそうなごくごく普通の花を直売所から買ってきて、ささっといけてみると、翌朝、しんなりと元気がなくなっていた。まさか、水切りが必要だったのかと不意を突かれた。それで遅ればせながら、ボールに水を張って、水切りをし、たっぷりの水につけてしばらくほっておいた。みるみると元気になった。

 丁寧にどんな花でも分け隔てなく、水切りしてあげればいいだけの話だ。けれどそれができない。つい分け隔てしてしまう。私のルーズな部分だ。反省。けれどたまたまだとも思う。そんなに落ち込むことでもないし、そんなにこだわっていたら肩が凝って仕方ない。

 それよりも、水切りするという行為を自分に当てはめてみる。当たり前だが、人によって違うものであり、そしてあえていうのなら、自分にしか自分を水切りするタイミングというのはわからないのかもしれない。簡単に言えば、疲れたら寝る、お腹が空いたら食べる、しんどかったら休む、カバンが重かったら、荷物を減らす。全てそこに通じていく。それでもたまにはルーズにタイミングを逸して、しおれたりもする。それもまた妙なのである。だって人間だもん。

 人は変わっていく。それと同時に必要なものも変わる。別れは知らぬ間に訪れたりもするが、手放さなければいつまでも持ち続けるものもある。手放すのも水切りの一つだろう。手放す、その行為は時にとても痛みを伴う。めめしい私など特にそうだ。それでも今日のために、その痛みが必要で、貴重なものになることも少なくない。ものすごく究極の例えならば、性格の合わない彼氏と付き合っている限り、性格の合う彼氏は作れない。重いカバンの荷物を減らさなければ、ずっと重いカバンを持ち歩くことになる。

 未来のためにできることは今日を生きること。今日を生きるために自分を水切りしていくことも恐れてはいけない。

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