ジョンブル魂の設計者。R・J・ミッチェルの生涯〜その1
いつも飛行機や航空技術の話をネタにしていますが、設計者たちの物語も始めていきたいと思います。彼らの空に駆ける情熱にほだされるので、たまに読みたくなったり紹介したくなるのです。
今回は「イギリスの救世主」とまで言われた傑作戦闘機「スーパーマリン・スピットファイア」を生み出したR・J・ミッチェルという方です。
航空機マニア界隈では知らない人がいないくらい有名な方です(^^)
◆若き才能とシュナイダー・レース
飛行機の黎明の時代、航空機の世界最速を競うシュナイダー・トロフィー・レースが行われていました。このレースは、1913年から1931年までの期間に、第一次世界大戦を挟んで11回開催されています。
富豪ジャック・シュナイダーの地元、フランスの優勝を皮切りにして、イギリス、イタリア、新興国のアメリカと、3つの国が交互に優勝の座を競い、正に三つ巴の戦いを毎回繰り広げていました。
しかし、1927年、とあるイギリスのメーカーが初登場でいきなり優勝をし、その後、3回連続で王者の座を守り続け、「5年以内に3勝した国が永久にトロフィーを獲得」というルールにより、シュナイダートロフィーは永久にイギリスの物となるのです。
この機体はスーパーマリンSシリーズと呼ばれ、この主任設計者こそ、後にイギリスを救った戦闘機、スピットファイアを生み出した若き天才技師レジナルド・ジョセフ・ミッチェルでした。
ミッチェル(Reginald Joseph Mitchell)は、1895年5月20日、イギリスのスタッフォードシャーに生まれました。
16歳で鉄道会社に蒸気機関車製造会社に技師見習いとして就職、夜学に通いながら、自分には数学的な才能があることに気づきます。
ミッチェルは、1917年の22歳の時にスーパーマリン社に転職します。当時の時のスーパーマリン社は無名の水上機メーカーとして細々と運営されていましたが、彼の活躍はめざましく、25歳にして早くもチーフデザイナーの座に着くことになります。
彼の名が世に知らしめたのは、当時ブームとなりつつあった水上機による国際航空機レース、シュナイダー・トロフィー・レースでした。
このレースの決まりは以下の通り
・出場できるのは水上離着陸のできる機体
・主催はフランスの航空協会と参加国の航空協会
・各国の航空協会は3チームまで代表を送り込める。補欠交代チームも3チームまで登録可能。
・レースの目的はシュナイダー トロフィーの争奪。
・5年以内に3回優勝した国がトロフィーを獲得。
・優勝チームの所属国が次回レースを開催できる
・コースは280kmの三角形周回コース(1921年から350km)など
(夕撃旅団-改サイトさまの情報から)
ドイツは第一次世界大戦の敗戦国ということもあり、参加資格が得られず、日本の航空技術は始まったばかりでした。
このレースにスーパーマリン社は、S.5という水上機で参加し、いきなり優勝という快挙を成し遂げ、設計者のミッチェルの名は一躍世に知れ渡ることになるのです。ミッチェルこの時33歳、「若き天才技師現る!」ですね。
その後も、ミッチェルたちの快進撃は止まらず、結果的に以下の記録を金字塔として歴史に名を残すことになります。
1927年スーパーマリンS.5 453.28km/h記録 優勝イギリス
1929年スーパーマリンS.6 528.89km/h記録 優勝イギリス
1931年スーパーマリンS.6B 547.31km/h記録 優勝イギリス
この1931年の優勝により、シュナイダー・トロフィーの所有権はイギリスのものとなり、 これによってレースそのものが終了となります。時代は、世界的な不況に突入し、航空機による国際的なレースも自然消滅というかたちになっていくのでした。
世界は、再び戦争の時代へと突入し始めてきていくのです。
ミッチェルも、スーパーマリン社の親会社であるヴィッカース・アームストロング社の意向にしたがって、戦闘機の設計に携わることになります。
高速機の設計に携わってきた技術力がいよいよ戦闘機として活かされていくことになるのですが、これが実に苦労の連続で、ミッチェルは大きな試練を迎えることとなりました。
◆戦闘機開発の行き詰まりと癌の発病
ミッチェルたちが初めて製作した戦闘機は社内名称、224型(タイプ224)と呼ばれていましたが、やがて明らかな失敗作であることが判明します。諦めきれないミッチェルは試行錯誤を繰り返すのですが、悪いことは重なるものです。
1933年、ミッチェルの大腸癌が見つかりました。開発がうまくいかない事に加え、自分が癌にかかる・・・。彼の人生にとって正に最悪の年です。
この1933年という年は世界的にも情勢が急変していく年でもありました。ドイツではヒトラーが首相に就任。ナチス・ドイツの独裁が始まり急激な軍事化が始まることになります。日本も国際連盟を脱退し、世界は戦争へ秒読みの段階へと舵を切った年でした。
ミッチェルは8月に大手術を受け、ヨーロッパへ静養旅行に出かけます。
その頃、社内では、誰もがミッチェルが主任設計を引退するか、自宅療養しながら個人で出来る仕事へと切り替えるのだろうと思っていました。
ミッチェルは静養のため向かったヨーロッパで、ドイツ人パイロットと新型戦闘機について話をする機会を得ます。そこで、ミッチェルは戦争が近いことを確信します。「ドイツは確実に戦争を仕掛けてくる。それも最新の兵器を携えて。」
◆祖国を救え!再び燃え上がるジョンブル魂
彼は、一刻も早く、対抗する戦闘機を開発しなければイギリスが存亡の危機に陥ることを確信します。
ミッチェルの使命が再び燃え上がります。ミッチェルは帰るなり、職場に復帰します。必要な医療機器を全て鞄に詰め込み、それを傍らにおいての勤務だったといいます。
それだけではありません。大手術のわずか3ヶ月後にの11月には、ミッチェルは航空機操縦の訓練を受け始めているのです。
自分自身が操縦士になるということは、設計者にとってはかなり有益なものなのですが・・・。並大抵の努力ではないですね。
こうして人生の大殺界ともいえる最悪の年に、ミッチェルは、闘志を燃やし始めるのです。最大の挫折やピンチこそ、最大のチャンスでもある。ジョンブル魂に火がついた彼の敵は、己自身の癌とナチス・ドイツの野望でした。彼の執念は実ったのでしょうか。→続くです。