木製機の意外な活躍!木製に戻った大戦機たち〜その2
最先端の技術の結晶である航空機。その材料も最新技術のジュラルミンやアルミニウムなどを使用していましたが、戦争が拡大化してゆくにつれ資源が枯渇していきます。
今回は、そういう物資不足を予想して大成功を収めた例と、もとから金属化に踏み切れないで、結局成功してしまった2つの例をお話します。
◆成功例① 木製の奇跡!デ・ハビランド・モスキート
時は大戦前夜の1938年のイギリス。その頃の時代は、全金属製に移り変わっている時代で、木造や布張りの航空機は、重くて遅い、もはや時代遅れとまで言われていました。そう、トレンドは全金属です。
そんなブームの中で、木製にこだわり続けた会社がありました。その会社名はデ・ハビランド社。木製航空機で成功を収めていた会社です。今まで、過去の成功体験がイノベーションの邪魔になって失敗してきた例を数多く語ってきましたが、この会社も木製にこだわりすぐたのかといえばそうではありませんでした。
「時代は金属化なのに、今更なんで木製なんだ?」というイギリス軍部の疑惑・軽視・猛反対をよそにデ・ハビランド社は成功の確信があったのです。
それは、「戦争になれば必ず金属資源が枯渇するはずだ」という時代の読みと「わが社は木工技術に自信がある」「熟練した家具屋や木工所の職人を動員できる」などの高い技術力があったとのこと。
それらの強い確信があったからこそ周囲の反対を押し切って木造爆撃機を開発しました。
こうして自社開発で出来た機体がデ・ハビランド・モスキートです。
実際に飛ばしてみたら超高性能!
この爆撃機は、当時の最新鋭のスピットファイアが590km/h前後の頃に、なんと656km/hの記録を叩き出します。戦闘機より約70km/hも早い爆撃機の誕生です。
これは、外板が木製であることから、リベットやつなぎの凸凹などを滑らかにでき、高速化に貢献できるという利点もあり、木製の長所を上手く活かしたといえます。伝統工芸と最新技術の融合ですね。
さらには、木製であることからドイツのレーダーに引っかかりにくいという、思わぬ副次効果も生まれます。今でいうステルスです。
もちろん、欠点として、燃えやすい。高温多湿には弱い。胴体着陸すると胴体下部がバラバラになって危険などのデメリットはありますが、それを補うだけの活躍を見せた優秀な飛行機でした。
軍部に「先見の明がない」のは、過去記事の「成功体験が招いた悲劇〜デファイアントとロック」でも述べていますが、正に常識や固定観念に縛られることの怖さを象徴した良い例ではないかと思います。
ただ、皮肉なことにこのデ・ハビランド社、戦後は旅客機の製造を行うのですが、金属疲労による連続的な事故により経営が悪化してしまい他社に買収されてしまうことになります・・・。金属を軽視した訳ではないのですが。なにか因縁めいたものを感じてしまいますね。
◆成功例② 脱しきれていないのが幸いした?ソ連の木製軍用機
ソ連では、ちょうど全金属製に移行する時期にドイツの侵略を受け、ウクライナの工業地帯を早々と失いましたので、木製軍用機に移行する途中の技術力のままで生産を行うことになります。
日本のように金属資源不足で生産数を落とすことなく、航空機生産を続行できたのは、正に不幸中の幸いといったところです。
ソ連機ではデルタ合板という強化木材技術が活かされていました。金属は少ないけど、豊富な森林がありましたので資源にはこと欠かないという感じです。
これはベニヤの薄板に樹脂を浸透させ、それに高い圧力と高温プレスによってを作られます。強度はあったけど重いのが弱点でした。
ただし、接着剤の原料となるホルムアルデヒド樹脂がドイツから調達していたので、独ソ戦が始まってからは調達が困難になり、デルタ合板が使えなくなったり苦労もしています。
面白いのはソ連機の各メーカーで木部の使用箇所が違うところです。正に三者三様というところでしょうか。当時の代表戦闘機は以下の3機種。
ラヴォチキン LaGG-3→全木製〜保証付きの塗装済棺桶という悪名が付く
ヤコヴレフ Yak-1→胴体が鋼管フレームにデルタ合板という、いわばミックス。
ミコヤン・グレヴィッチ MiG-3→胴体前と翼付け根部分が金属、胴体後部が木製と、境界がはっきりしているハーフ(下図参照)
さてイギリスやソ連では背景は違えど、木製軍用機は活躍することができました。特にイギリスのモスキートに対しては、ジェット戦闘機のメッサーシュミットMe262が登場するまでは、有効打が打てず、デ・ハビランド社へスパイを送り込んで工場を破壊する案までが出たくらいです。
では日本やドイツではどうでしょうか。再び前回の話に戻って空技廠の技術開発について語りたいと思います。→続きます。
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