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戦争にまつわる霊的な話

 数十年も前ですが、某掲示板に印象的な話があったのでご紹介。
 第二次世界大戦中の零戦乗りだったおじいちゃんを持つ方のお話です。話の背景も調べてみました。

零戦の台南航空隊は有名

◆身代わりになった?台湾のお母さん

 今年大往生した母方の祖父ちゃんは、零戦乗りだった。予科上がりだけど、特乙や特丙※1よりも前に出たので、それなりに操縦士の中でもエリート意識はあったらしく、飛行時間をよく自慢していた。こっちから聞けば積極的に当時の話を聞かせてくれた。その中で印象に残っている話を一つ。
 1944年、祖父ちゃんは台湾海軍航空隊※2に所属していて、台湾に住んでいた。
 本土から呼ばれて宿舎に空きがなかったので、基地近くの台湾人の人の家に下宿していた。
 その家には台湾人の老夫婦が住んでいて、いつもとても良くしてくれるので、小さい頃に母親を亡くしていた祖父ちゃんも嬉しくて、奥さんの方を「台湾のお母さん」と呼んで、親孝行の真似事なんかもしていたらしい。
 そしたら夏の暑い盛り、いつも元気なお母さんが寝込むようになった。
祖父ちゃんも心配して、薬を工面して渡していたりしたらしいんだが、なかなか回復しない。
  ある日枕元に座っていたら、お母さんがこんなことを言った。
「実は飛曹(祖父ちゃんは他の人から○○飛曹と呼ばれてた)さんが撃ち落されて戦死する夢を見たことがあった。夢見が悪いだけかとも思ったが、もし正夢だったら大変だ。折角できた息子が死んでしまう。 なので神様にお願いしたら、代わりがいると言われたので、私と代えてもらうようよくよく頼んだ。私はもうすぐ死ぬが、これで飛曹さんは大丈夫だ。」
祖父ちゃんは、きっと病気で気弱になったのだろうと思って、大丈夫ですよと答えたそうだ。
 そんで10月の台湾沖航空戦※3。台湾海軍航空隊も米軍迎撃のために出撃。 結果は知ってのとおり壊滅だ。祖父ちゃんの同期もほとんどが未帰還になった。
 祖父ちゃんも撃墜されたが、機が火を噴かず落ちて、幸運にも着水脱出。
とはいえ、島影も見えない海のど真ん中にプカプカと浮かんでる状態で、このまま漂流して死ぬのか、と思っていると、なんと台湾から出漁していた漁船が通りかかり、 「日本人だ!助けてくれー!」と叫んで、引き上げてもらい、無事生還。
 下宿に帰ってみると、お母さんは亡くなっていた。 旦那さんに尋ねると、ちょうど祖父ちゃんが出撃して飛んでいる時に亡くなったそうだ。何の神様に祈ったのかは分からない。

出典:656 本当にあった怖い名無し : 2012/10/25(木) 22:40:34.28 ID:hCQa0QHa0

 自分を身代わりにしてまで、日本人の息子同然の祖父を助けたという台湾のおばあちゃん。台湾にはそういう神さまがいたのでしょうか。台湾との交流に、哀しくとも、いい話だなと感じてしまいました。  
 ちなみにこの内容が掲示板に投稿されたのが偶然にもちょうど12年前の今日10月25日でした。記事を書いてて出典の日付見て気づきました・・・。

 さらには今年(2024年)の今日は、太平洋戦争末期の昭和19(1944)年10月25日、最初の神風特攻隊が敵艦に突入してちょうど80年にあたります。
 このシンクロ率・・・なにこれ怖い。
→ヤフーニュース「神風特別攻撃隊」が初めて敵艦に突入してから今年でちょうど80年…日本海軍における「特攻」誕生の経緯

台湾沖航空戦

※1 特乙、特丙〜海軍飛行予科練習生(予科練)の制度で戦局の悪化に伴い、乙種予科練志願者の中から選抜し、乙種(特)飛行予科練習生(特乙飛)とし短期養成を行った。特丙は朝鮮人日本兵、台湾人日本兵対象。
※2 台湾海軍航空隊〜1944年7月に編成された最初の乙航空隊のひとつ。航空機を用いて作戦を実施する「甲航空隊」とは対極をなし、航空機を持たず、航空基地を防衛し、支援システムを保有する陸上部隊。
※3台湾沖航空戦〜1944年10月12日〜16日に行われた台湾から沖縄にかけての航空基地を攻撃したアメリカ海軍空母機動部隊を、日本軍の基地航空部隊が迎撃したことで発生した航空戦。日本海軍の参加勢力の航空機1,251機中、312機が撃墜された。

Wikipediaより

せっかくなのでもう一つ。これも戦争にまつわる不思議な話です。空母「翔鶴」という有名な空母があるのですが、そこで戦死したご主人が奥さんのところに夢枕に立つという話です。

◆25年越しに判明した、夢枕に立つ夫の左足がない理由

  戦闘の際、日ごろからお世話のなっていた中尉が敵機の爆弾により倒れた。 左足を付根からもぎ取られていたが、まだ意識があり「もし呉に帰ったら家族に苦しまずに死んだ、と、そう伝えてくれ」そう言い息を引き取った。
 見習い尉官は遺言どうり中尉の家族に手紙を書き送った。 
 それから二十五年後に行われた戦没者慰霊供養の際に中尉の未亡人と会い、実際の中尉の最期を伝えた、すると未亡人は「これまで何回となく夢で帰って来てくれましたが、不思議な事に、そのたびに左足がないんです。 今、やっと、その訳が解り、ほっとしました」

 これも印象に残る話ですね。
 家族が心配しないように「苦しまずに死んだと伝えてくれ」という思いやりにも家族愛を感じます。 
 また、夢に出てくるその姿に疑問を抱いていた奥様が長年の疑問にホッとしたというやりとりも、霊の実在を感じさせてくれるものがあります。 

 余談ですが、空母「翔鶴」は、真珠湾攻撃、セイロン沖海戦、珊瑚海海戦、ソロモン海戦、南太平洋海戦、マリアナ沖海戦など、主な海戦のほとんどに参加してきた歴戦の空母ですが、珊瑚海海戦で空母「ヨークタウン」の攻撃隊の攻撃をくらい大きな損害を被ります(戦死者109名、重傷者114名)。 大損害を受けた翔鶴は5月17日に実際に呉港に戻りますが、もしかすると手紙を出したのは、この時の出来事かもしれません。 

実際に大破した「翔鶴」の画像 1942年5月8日

 戦争は、実際に命のやり取りをする悲惨なものです。なので、人間の生命が極限にまで追い詰められる経験でもあるのです。
 そういうこともあってなのか、戦争には、こういう不思議な話も多いです。

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