松下幸之助の軍用機「明星」 木製に戻った大戦機たち〜その4
大戦中に活躍した木製軍用機たちの話の最終回になります。全金属製の時代に逆行するような木製機たちは、正にトライ&エラーの繰り返しでした。成功した国もあれば、運が良かった国、逆に不幸な国など様々でしたが、最終回は、あの有名な松下幸之助氏が手がけた木製軍用の話になります。
◆白羽の矢が立った松下幸之助氏
すべての産業活動が軍需生産に動員される中で、松下幸之助氏の松下電器も、軍の要請で、否応にも航空機用の電装品の各種を製造するようになります。そして1943年。松下幸之助氏の会社は、未経験の250トン型「木造船」の建造を余儀なくされます。彼は家電生産で培った効率化を活かし、ラジオ工場の流れ作業を応用して、木造船の生産を8工程に分けます。
船台をレールに乗せて、1日に1工程ずつ移動し、最後の工程で艤装を終わり、そのまま進水させるという独創的な工法であり、大きな注目を集めました。6日に1隻の割合で進水させるまでになります。やるからにはきちっとやる。流石ですね。
これに着目した軍の要求は更にエスカレートし、造船の次はついに木製軍用機の製造まで要求されることになります。
◆松下幸之助氏の苦難の開発
これが、九九式艦上爆撃機を木製化した「明星」でした。工作の簡素化のため、優雅な楕円のペーパー翼をやめ、主翼も尾翼も直線テーパー翼に改められます。もはや別物のようです。
松やヒノキ材をボルト留めした骨格に、バルサの積層材を貼り付け、従来の羽布張りも多用しました。
しかしながら、今までの製造品と違い、航空機に求められる絶対的な高品質や認識、経験、人材が不足していましたので、計画は大幅に遅延してしまいます。
面白いエピソードにこんなものがあります。
使用する接着剤は時間が経つと硬化しますので一定時間の作業で行うのですが、余ると当然使いものにならないので廃棄します。これがもったいないと思った工員たちは、硬化剤の量を減らして硬化時間を遅くする工夫を勝手にしていたのです。少しでも無駄にするなという、節約哲学が社員に浸透していたんですね(^^)
当然、硬化不足になり、基準の厳しい航空部品ですので不合格になります。あまりにも不合格が出るとつぶれてしまいますので、松下幸之助氏は監察官とこんなやりとりを。
「監察官、この品物あきまへんか」
「そう、不合格です」
「さよか・・・(しばらくの間)、よろしい。ほなら値引きしますよって、二級品として引き取ってくれなはれ」
「冗談じゃないですよ。飛行機に二級品はないんです」
「さよか〜。あきまへんか」
おまけするから納品させろとは・・・。さすが家電製品を売りまくっていた大阪商人らしいやりとりですね(^^)。
◆続々と開発中止になる木造化計画
こんなに真剣に開発を行って、完成の目処が立ち始めたにも関わらず、一部の試作機には開発中止命令が下ります。
その理由の一つには、戦局の悪化に伴い、機種を絞り、生産を集中することになったことがあります。川西飛行機では、紫電改の生産に集中をすることになりました。
そしてもう一つの理由は、いよいよB-29の本土爆撃が始まったことによります。木材など燃えやすいものは早急に撤去せよという達しがあり、工場の疎開、分散も始まりました。
東海の木製機タイプは強度試験の最中に終戦となります。蒼空も結局、試作段階のみで終戦、完成することはありませんでした。
明星だけは空技廠の技術研究ということもあり、開発を続けることになりましたが松下幸之助氏のスタッフたちは更に苦労の連続になります。
一号機が完成したのは昭和20年(1945)の初頭のことでした。終戦までに4機が完成しましたが、試験飛行の最中に終戦の知らせを聞くことになります。
そして数時間後には、機体の破壊命令が下るのですが、「そんな簡単につくったり、壊したりできるか!」と関係者たちが憤慨したのは言うまでもありません。
結局、完成したばかりの明星全機が解体されるのにそう時間はかかりませんでした。まさに”宵の明星”の名に相応しい運命になりました。
大東亜決戦号「疾風」にも木製化計画があった
これ以外にも木製化が計画された軍用機はありました。主に練習機とか後方任務の機体から始まりましたが、最終的には大東亜決戦号とまで言われた主力戦闘機「疾風」にまで、その計画は及びます。日本の物資不足は深刻なものとなっていたのです。
計画されていたのは、以下の急造型です。
キ106→1944年着手。四式戦「疾風」の機体の大半を木製化。
キ113→内部の主要構造を鋼製、金属もブリキ製の板へ。
キ116→生産が追いつかない「誉(ハ45)」エンジンをパワーダウンの「金星62型(ハ112-Ⅱ)」エンジンに。
重量が増加することで性能の悪化は顕著で、その対策をしている間に終戦となりました。
このように世界各国の木製化は強度や接着剤技術との戦いになりましたが、同重量でジュラルミンの強度の約2倍を誇る積層木材も完成したり、その後の繊維技術や成形技術に大きな功績を残しました。
空技廠が解体された技術者たちの中には、スポーツ用品のミズノに就職し、強化バットの開発で戦後野球界に貢献した者もいます。
積層材技術は、ゴルフのクラブ、ラケットのフレーム、スキー板、野球のヘルメットなどにも活かされ、平和な時代に一気に花開くことになります。
全4回に渡り、お付き合いくださり、ありがとうございました。
<参考文献やサイト>
『航空テクノロジーの戦い―「海軍空技廠」技術者とその周辺の人々の物語 (光人社NF文庫)』、『松下幸之助経営回想録』、『航空実用事典』その他
Panasonicさまサイト「松下幸之助の生涯」を参考にさせていただきました。