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哀しき宿命を背負ったツバメ〜三式戦闘機「飛燕」

 新しい何かに挑戦するということは、結果がどうあれ、その経験は教訓となり、次回に活かせる大切な体験になると思います。
 今回は、悲劇になりそうな宿命を背負ってでもデビューし、挫折しかけた異色の戦闘機「飛燕」についてのお話を。

◆日本戦闘機の中で唯一の液冷型戦闘機

 三式戦闘機キ61「飛燕」は、当時の日本で唯一の量産液冷戦闘機であり、ドイツの液冷航空エンジンDB 601を国産化したハ40を搭載した戦闘機です。生産機数は約3,150機、零戦、隼、疾風に次ぐ第4位の生産機数を誇ります。
 当時の開発コンセプトであった格闘戦重視の軽戦、対爆撃機用の重武装総武の重戦のどれにも合致しない、いわば中戦ともいうべきコンセプトで生まれた戦闘機で、これは設計者の土井武夫氏の「理想の総合性能で勝つ戦闘機に軽戦も重戦もない」という考え方から来ています。
 このようなコンセプトから開発されたキ61試作機は、最高速度590km/hを発揮し、予想外の高性能を発揮します。同じ液冷エンジンを搭載したBf109Eよりもすべての性能で上回り、最高速度も30km/h 早く、急降下性能も当時の日本機の中でも群を抜いていました。
 この結果に満足した軍は、1943年(昭和18年)に制式採用され、三式戦闘機「飛燕」と命名されます。その軽妙俊敏さの姿は、あたかも青空を截って飛ぶ燕にも似ているところから「飛燕」と呼ぶことになったとか。
 そのスマートでスリム、優雅なスタイルは、日本戦闘機の唯一の液冷エンジンを搭載した所以であるといえますね。

◆液冷エンジン開発の難しさ

 この第二次大戦当時、航空機用のエンジン(レシプロエンジン)には大きく分けて空冷エンジン液冷エンジンの2種類がありました。
 要は、ピストン運動で加熱するエンジンをどうやって冷やすかの方式なのですが、空冷に比べて液冷は構造が非常に複雑という欠点があります。
 その半面、断面積が小さく空気抵抗も小さいため、速度が重視される戦闘機などには多く使われていました。説によると、液冷戦闘機の抵抗面積は空冷戦闘機に比べて20 %程度減少し、速度は6 %向上するなど、液冷エンジン搭載は空力的にも優位な形になります。
 なので、本当は戦闘機は液冷にしたいところですが、日本では結局のところ、経験と実績のある信頼性の高い空冷エンジンを使っていました。
  ちなみに零戦や隼に搭載されている栄エンジンも、アメリカのプラット・アンド・ホイットニー社製エンジンのライセンス生産からの流れから来ています。

左が空冷エンジン、右が液冷エンジン 正面面積が全然違いますね

◆工業製品の開発の仕方

 どこの国でもそうですが、最初は相手のモノマネから入ります。他国の製品を分解して、コピーを一生懸命しつつ、基礎技術を上げていき、自社開発をしていくという流れですね。かつての家電の日本、中国もしかりです。
 さて、開発が遅れていた液冷エンジンは、1938年当時は、すでにアメリカとは緊張状態にあるため、同盟国のドイツに調達に行き、ダイムラー・ベンツ社のDB601のライセンス契約をします。
 余談ですが、生産するにあたるライセンス料、同じDB601エンジンを陸海軍がそれぞれ支払ったことから、ヒトラーから「日本陸軍と日本海軍は敵同士なのか」と笑われたとか。発言の真偽の程はともかく、実際に海軍は愛知航空機に、陸軍は川崎航空機にこのDB601を作らせました。
 国家間同士の契約とはいえ、高額なライセンス料をわざわざ同じエンジンに支払うなんて、日本人って律儀というか、生真面目だなと思います。
 ちなみにダイムラー・ベンツ側もダブルで契約するのは道徳的に反するといって一旦契約を断ったそうなので、両国とも生真面目なお国柄なのが伺えますね(^^)
 こうして開発して出来たのがハ40(川崎・陸軍製)、アツタ21型(愛知・海軍製)です。系統図は以下の通り。

日本の液冷エンジンの系統図

 ただし、この液冷エンジン、ドイツ工業技術の集大成ともいえる製品で、日本では、精緻なパーツを生産する最新の工作機械および原材料資源を十分に確保することが出来なかったため、設計図通りに精緻な部品を量産することが困難でした。そのため、独自の変更をしたり、クランク軸などの直接輸入もしています。

◆故障続きの戦線と首なし機体

 さて、無事に「飛燕」として正式採用されたキ61三式戦闘機ですが、ラバウルの陸軍基地→フィリピン方面に配備されたものの、その性能を充分に発揮できませんでした。
 というのも、斬新かつ複雑なエンジンの整備に困難があったためと記録されています。油漏れやエンジントラブルが常につきまといまい、稼働率は他機を下回ったと言われています。飛燕が配備されるところ、常にエンジンのトラブルがつきまとったと言われています。
 戦局が内地に移った防空戦の戦いでは、交換や補給もできて問題はそんなにはなかったようですが、それでも熟練工たちの人材不足による品質劣化、工作精度の悪さ、材料の調達の困難さなど影響などが戦局の悪化と共に影響し始めてきます。
 しかし、その性能の高さゆえに飛燕の生産は続けていました。問題が発生するのは、飛燕のⅡ型になってからです。
  B-29などの米軍の爆撃による戦局の悪化に伴い、製作不良・整備困難などの問題が深刻化、液冷エンジンの深刻な供給不足に陥ります。

選挙は広報の総合格闘技」などと言う、とある女性社長のお言葉がありますが、「戦争は、国民全体の人口、教育レベル、工業生産力、技術力などの総合戦」だと思います。
 こうして、1944年の年末の生産工場では、搭載するエンジンを待つ、首のない胴体のみの機体がずらりと並ぶ事態に発生します。その数、常時200機以上・・・。
 この事態を深刻とした軍部は一旦飛燕の生産を中止しますが、この首なし機体をどうするのか・・・。
 設計者の土井氏は、工場で必死にハ140エンジンを生産している仲間たちの姿に苦悩をしつつも前から計画していたことを実行します。それは液冷エンジンの飛燕を空冷エンジンに付け替えようとするアイデアでした。→続きます。

日本陸軍の単座戦闘機


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