
全翼機にかけた情熱その2〜ノースロップの夢
さて、前回は、ドイツで全翼機の開発に取り組んだホルテン兄弟を紹介しました。実はアメリカでも同じように全翼機にとりつかれた技術者がいました。
その人の名はジャック・ノースロップ(1895〜1981)。アメリカのかの有名なノースロップ・グラマン社の前身となる会社の創立者です。今回はその人の話を。
■全翼機の魅力にとりつかれた男
ジャック・ノースロップは航空技術者であり、実業家でした。生涯3回に渡って航空機メーカーを起業し、3度目の起業のノースロップ社が、1944年にグラマン社と合併してノースロップ・グラマン社として現在も盛業中です。
彼もまた全翼機の魅力に取り憑かれた男で、1930年代から全翼機の開発に心血を注いでいました。全翼機には魔性の魅力があるのでしょうか、ホルテン兄弟といい、全翼機に一度とりかかると他の機種の飛行機は開発したくなるようです。

■10×10ボマー構想から生まれたYB-35
アメリカが欧州の第二次世界大戦に参戦する直前の1941年4月。アメリカ陸軍航空隊は、10×10ボマー構想となるものを立ち上げます。これは10,000 lb(約4.5トン)の爆弾搭載量があり、10,000マイル(約1万6千km)の航続距離を持つ爆撃機という意味で、万が一イギリスが降伏した場合、アメリカ本土からドイツを爆撃にいかねばならなくなるため、大西洋を往復飛行できる航空機が必要となるための構想でした。
この要求に対し、ジャック・ノースロップは大きな翼だけの構造で長距離爆撃ができるB-35を提案します。
最大速度は時速629kmで、爆弾7.3tを搭載、1万3千kmを飛行、機内は全翼化によって広いスペースが確保され、爆弾も機内に最大23.2tまで搭載でき、機体中央部には操縦席や航法士席、引き込み式の対空機銃座、搭乗員用の食堂、交代要員の仮眠室まで設けられました。翼長もドイツのHo229の16.7mに比べて52.2mと3倍以上の大きさです。翼面積に至っては7倍以上ですから、最初からかなり大型で企画していたのが分かりますね。
1機目は1943年11月に引き渡される計画でしたが、全翼機の爆撃機の製作は史上始めての試みですので、様々な困難に突き当たります。

まずは、3000馬力のエンジンを長いプロペラシャフトで後方まで持って行き二重反転プロペラをまわすのですが、この振動問題で悩まされることになります。
速度や航続距離も計画よりも低下することなども判明し、1943年6月には量産型B-35Bを200機生産する契約が結ばれていたのですが、開発が進まず、そうこうしているうちに大戦が終結。
初飛行は戦後の1946年6月に行われますが、その後も諸問題が解決せず、1949年には開発はついに中止となります。
しかし、全尾翼の魅力は充分可能性として残っていましたので、空軍は次世代機として開発を続行させます。
■ジェット化のYB-49で実用化を目指すも
戦後はジェットエンジンの時代になってきており、YB-35はジェット化のYB-49として開発が引き継がれます。
YB-49は1947年に初飛行しますが、全翼機の特性でもある安定化がイマイチで、そのうちの1機は墜落し、搭乗者全員が殉職するという事故まで発生します。
原因ですが、同じ翼型を使用していたYB-35からYB-49に変更するにあたり、ジェット化したことで、その安定効果を見逃していたのではないかと考えられています。

1948年に起きたこの事故で、この飛行場の名は殉職したパイロット、グレン・W・エドワーズ大尉の名前をとって”エドワーズ空軍基地”と名前が変更されることになりました。
余談ですが、このエドワーズ空軍基地は、世界初の超音速飛行のX-1や、X-15の極超音速飛行実験、スペースシャトルの滑空実験など、最新鋭の機体の実験飛行場として有名です。そのおかげでこの基地はUFOの秘密実験場などの噂が絶えません(笑)。

結局、この事故も一因となって、B-35、B-49の両計画は1950年には中止となります。ジャックこの時、55歳。全翼機の夢敗れたジャックは1952年に航空工業界を引退、以後ノースロップ社と関係することなく、カルファオルニア州サンタバーバラでその余生を過ごすことになりました。
■ホルテン兄弟やノースロップの夢が叶った日
ジャック・ノースロップの全翼機の開発の夢は途絶えましたが、その後も着実に進化する航空機の技術開発が、全翼機の実用化に大きな手を差し伸べることになります。
その技術は、フライ・バイ・ワイヤ技術(電気信号による飛行制御システム)。
パイロットの操縦による安定化が難しい全翼機の飛行制御を飛行制御コンピューターの補助により改善するようになります。自動制限機能により、失速や荷重などによる飛行制限を気にすることなく操縦可能になりました。
時は流れて、1980年4月。パーキンソン病に犯され、車椅子生活になり余命幾ばくもないジャック・ノースロップは、ノースロップ社に久々に招かれます。そこで重役たちからある箱が手渡されました。
その中には、開発途上で軍の最重要機密であったにもかかわらず、特別許可を得て許されたB-2の模型が入っていたのです。
それを見た彼はこうつぶやき、涙を流しました。
「今こそ、神が25年の余生を与えたもうた理由が分かった」
"Now I know why God has kept me alive for the last 25 years."

それは、ジャックが長年夢みたいた、XB-35ようなプロペラハウジングもなく、YB-49のように垂直フィンもない、純粋な全翼機だったのです。
ジャックは満足したのでしょうか、翌年の1981年2月18日、85年の生涯を、カリフォルニア州サンタバーバラの病院で閉じました。
全翼機を開発するのが目的で起こしたジャックの会社は、ジャックが去った後も研究を続け、完全な全翼機B-2としてロールアウトされたのでした。
B-2は1997年から運用され、現在も、アメリカの最重要機密の爆撃機として君臨しています。
この全翼機構造は近年では、ブレンデッドウィングボディ(Blended Wing Body, BWB)と呼称され、NASAでは翼と胴体を一体的に設計することで空気抵抗を低減させた、搭載量の増大と燃費の向上を意図した旅客機として研究が進んでいます。

全翼機の魅力というのは技術者たちを熱中させるものがあるのでしょうか。ホルテン兄弟もジャック・ノースロップもその生涯を全翼機の開発に捧げました。
フライ・バイ・ワイヤシステムが開発されたことで実用化への道筋が見えましたが、彼らは早く生まれ、そして少し早い夢を見たのかもしれません。
航空機技術は悲しきかな、軍事産業にまず使われますが、その応用技術は必ず民間産業に下りてきて、私たちの生活の利便さに貢献しています。彼らのその努力や取り組みは決して無駄ではなかったと思うのです。