ついてないカタヤイネン〜その1
独身寮に住んでいた頃、夜中にコンビニへ行こうと車を出しましたが、免許証を忘れてしまいました。そうなると不安に駆られるのが常でして、慌てて引き返すことに。近道を選んだところ、なんとそこで検問に遭遇!まるで捕まるために戻ったような気分でした。Uターンもできない狭い道。4台、3台、2台と取り調べが進むにつれ、胸の鼓動がバクバクします。気分は断頭台で順番待ちをしている囚人です。いよいよ自分の番だと覚悟を決めた瞬間、お巡りさんが「はい、ここまでで結構です。進んでくださーい」と言ってくれました。おぉ!なんたる幸運!
免許不携帯が見つからず、無事に寮に戻れました。後日、同僚にこの話をすると、「それってツイているのか?、いないのか?」と微妙な顔をされました。確かに、運が悪いとも言えますが、最終的にはセーフだったので、ツイていたのかもしれませんね。
今回はそんな、周りの人を微妙な顔にする人の話です。
■「ついてないカタヤイネン」
ニルス・エドヴァルド・カタヤイネン(1919年5月31日 - 1997年1月15日)は、フィンランド空軍のパイロットです。対ソ連戦で35.5機撃墜の戦功を挙げたフィンランド空軍8位のれっきとしたエースなのですが、同時に様々な不運に見舞われ続けたことから、一般的には「ついてないカタヤイネン」の呼び名で知られています。一応「不死身のカタヤイネン」というあだ名もあるのですが・・・。
・冬戦争とブリュースターバッファローB-239
941年6月、ソ連が再びフィンランドに侵攻してきた頃の話です。第二次世界大戦が勃発した直後、ソ連はフィンランドに対して侵攻を開始しました。この戦争は「冬戦争」と呼ばれ、フィンランドは善戦し、ソ連の攻撃を撃退しました。しかし、屈辱を受けたソ連は再び準備を整え、侵攻を試みたのです。
カタヤイネンはこの時期にパイロットになります。この時の機体はブリュースターバッファローB-239。建前上は戦争に参加していないアメリカがスペックダウンした二線級の機体ですが、この戦争では「空の真珠」とパイロットたちから愛され、大活躍する飛行機です。零戦には全く歯が立たず「空飛ぶ棺桶」「ビア樽」と全く逆の評価を受けた機体でもあります。
・カタヤイネンの最初の不運
カタヤイネンの不運はいきなり始まります。最初の訓練飛行の際に、飛行場が不整地のために機体が急に弾み、主脚がはじけ飛び、それが昇降舵を破壊してしまいます。普通ならこの時点で離着陸するのは大変危険な状況になるのですが、カタヤイネンは片輪のみで、最小限の損傷で着陸に成功させます。
この件で、操縦技術は優秀であることを証明してみせたのですが、機体はフィンランド空軍きっての貴重な飛行機、バッファローB-239だったので上層部から目をつけられることに。
以降、この手の「不運」がカタヤイネンにずっと付きまとうことになります。
カタヤイネンは6月にソ連のSB高速爆撃機を撃墜して初戦果を上げますが、それと同時に被弾によってエンジンを損傷、エンジンは完全に停止してしまい、あやうく初撃墜と初被撃墜を同時に経験するところでした。
■交互にやってくる「幸運」と「不運」
8月にも2機撃墜をするのですが、この時も燃料タンクに被弾して危うい目にあいます。10月には、偵察飛行に出撃するのですが、この時も被弾し、燃えたエンジンをなんとか動かしながら基地へ生還します。
1942年7月、カタヤイネンはバッファロー(BW-365号機)のテスト飛行を任されます。この機体は、数日前にソ連軍占領地に不時着したのを、陸軍が必死に回収してきたものでした。
たかが1機の回収に陸軍を動かすなど、フィンランド軍でなければ考えられない逸話なのですが、それほどにバッファローは貴重な戦闘機だったのです。カタヤイネンが多数の不運に見舞われながらも常に機体を捨てなかったのもそのためでした。
しかし、修理し終わったこの機体ですが、離陸直後からエンジンが異常振動を起こし始め、機体ごとひっくり返る事故に見舞われます。運がいいことにこの時はカタヤイネンは傷ひとつ負いませんでした。まさに不死身のカタヤイネン。こうなると「幸運」な人なのか「不運」な人なのか、判断に困るところではあります。
・左遷される「ついていないカタヤイネン」
しかしカタヤイネンには、何故か「幸運」と「不幸」が交互にやってきます。このように頻繁に貴重な戦闘機を壊し続けたカタヤイネンはエースパイロットであるにも関わらず、爆撃機の部隊に回されてしまいました。しかもこの部隊、実際には戦闘に参加することはなく、来る日も来る日も対潜哨戒という退屈な任務でした。
彼の優秀な腕を知る元の上司も本人も、もとの戦闘機部隊へ戻すように直訴をするのですが、爆撃機部隊の上官の機嫌を損ね、ついに飛行任務から外し、ハンガーの掃除係に任命します。
操縦桿ではなくホウキを握らせるなんて、冗談のような話です。
さすがにこれはあんまりだということで、ほどなく飛行任務には復帰できたものの、やはり退屈な対潜哨戒はカタヤイネンにとって苦痛でしかありませんでした。
しかし、1943年の春には、必死の運動の甲斐あって、ついにカタヤイネンは古巣の戦闘機隊への復帰を果たします。
戦闘機乗りとしての勘も取り戻し、ハイペースで撃墜記録を重ね、順調に思われたカタヤイネンですが、案の定というべきか、「不運」も蘇ります。
■ついに来た!最大の幸運?と最大の不運
1943年6月6日、バルト海上空で交戦したカタヤイネンは、敵の機銃を食らいました。カタヤイネンは翼の損傷でバランスを失いそうになるバッファローを操縦し、基地に帰投しましたが、受けた傷は思ったよりも深く、入院するはめに。数週間後、退院したカタヤイネンを待っていたのは、「傷を完治させるために長期休暇せよ」との命令でした。機体を壊し続けるカタヤイネンに長期休暇を与えてしまえという上層部の思惑もあったのではないかと言われています。
なんて「不幸」なカタヤイネン。しかし、今度は「幸運」が訪れます。この長期休暇の間に恋人ができ、カタヤイネンは結婚します。なんだこの人(笑)。
しかし結婚が「幸運」(幸運か?)であるならば、今度はそれに釣り合うだけの「不幸」がやってくるのがカタヤイネン・・・・。
1944年2月、この時にはドイツから最新鋭のBf109Gが部隊に配属されていました。連合国の重要な一員だったソ連の横暴にイギリスなどの連合国軍の諸国は事実上の黙認です。味方になってくれたのは「敵の敵のドイツ」だけという皮肉。Bf109G-2/G-6はメルス(Mersu)の愛称で呼ばれていました。
今度は何度もエンジンの不調で泣かされたバッファローではなく、最新鋭の液冷エンジン搭載のBf109Gです。
が、なぜかカタヤイネンの機体だけエンジンが黒煙を吹き始めます。カタヤイネンはエンジンを切って、滑空飛行でなんとか着陸し、すぐに整備兵が消化してくれたものの、エンジンは完全にダメになってしまいました。
そしてそのすぐの翌週には、「最大の不運」がついにカタヤイネンを襲います。
再度のテスト飛行の際に急に悪天候になり強風で雪が舞い上がりカタヤイネンの視界を遮ります。この時に滑走路の除雪の雪の山がBf109Gの片翼に衝突、バランスを失った機体は離陸速度のまま雪の大地に突っ込みバラバラになる大事故を起こします。
さしもの「不死身のカタヤイネン」も、今度ばかりは死んだろう。そう思って駆けつけた整備員たちでしたが、なんと彼は生きていました!
幸運だったのは、速度を出しすぎなかったことと、やわらかい雪の大地に落ちたこと、エンジンが燃えださなかったこと。どれか一つの条件が欠けていたら決して助からなかったと言われています。
病院に担ぎ込まれたカタヤイネンは、長期入院を命じられてしまいます。それから4ヶ月をカタヤイネンは病院で過ごします。
やがてソ連の大攻勢が始まり、カタヤイネンの最後の大活躍が始まります。その続きは次回に