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「愛」の対極とは?



■愛の反対は正義である?

 車や電車の中ではポッドキャストをよく聞いているのですが、先日、とある番組で興味深い発言がありました。それは神父さんの話で、「愛の反対は正義である」と言うのです。えぇ〜っ!と思いました。正義感が強い人って、社会の悪を許せず、弱者救済という愛の思いも強いことから、正義=愛みたいな感覚で、愛と正義は一体のものだと思っていました。

 しかしながらその後の説明はこうでした。 
正義とは、混沌とした物事を善悪に峻別する力である。だから、悪とされる部分は切り捨てられる。
 一方で、愛とは全てを包み込む力であり、正邪の峻別で捨てられた悪の部分を救済するのが愛なのだ
」と。
 なるほどなぁと思いました。これをキリスト教の神父さんが語っているのが興味深いです。
 キリスト教の価値観は正義に拘る部分がありますよね。特に宗教が絡むと、相手を悪と認定した時、正義は行動を伴うため、その正しさを実証しようとして悪を切り捨てようとします。しかし、その悪の側にいる人間も一緒に切り捨てられてしまうのです。
 一神教同士の宗教戦争の原理ってこういうところじゃないかなと想います。「自分たちの神の方が正しい」って、お互いの正義で裁き合いますよね。裁かれた側の人間は恨みます。それも子々孫々にその恨みをしっかり伝えたりして。
 愛は、そのような悪人と認定された人たちをも救うということですね。

 個人的には、「正義を語るのは構わないけれど、それと同時に包み込む愛も忘れずにしなければならない」と思いました。
 時として正義感の強い人は、自分の主張を貫く一方で、切り捨てられた人のことをあまり考えていないように感じます。切り捨てられた側の人たちは当然ながら恨みます。 
 得てして、その恨みは、理屈では解決できない場合が多いので、そういう場合はフォローが必要になります。それはやはり愛ではないかと思います。 

■愛と憎しみ

 普通の感覚だと「愛の反対は憎しみである」と思いますよね。「好き」の反対は「嫌い」なので。男女間の愛を語る時には「愛の反対は憎しみ」と言うと分かりやすいです。しかし、心理学的には非常に近い位置にあるそうで、これも驚きでした。
 好きな人のことは一日中考えていますが、憎い人も同様に、その人のことを憎い、憎いと考えています。心の中を常に支配しているという意味では、好きと憎しみは極めて近い感情です。恋愛でも、嫌いだった人をある時を境に急に好きになることがありますが、これがそのことを示しているのかもしれません。逆に「かわいさ余って憎さ百倍」とも言う言葉があるように、愛と憎しみは表裏一体の関係かもしれません。

■愛と無関心

 このような意味では「愛の反対は無関心である」という、ノーベル平和賞受賞者エリ・ヴィーゼル氏の言葉(マザー・テレサの言葉というのは俗説ですが)も非常に考えさせられます。これも納得できます。
 憎しみという感情も「その人のことを思う」ということなので、自分の心の中に存在しますが、「無関心」というのは「自分の心の中にも存在させない」ということになります。
 人は認められたいという欲求がある生き物ですので、考え方によっては、無関心とは時に最も残酷な行為になり得ると想います。

■愛と自己否定

 また、「愛の反対は自己否定である」という説もあります。これは「引き寄せの法則」などから学んだのですが、愛とは相手を認めることや肯定することですが、それにはまず自分を愛することが必要だとする考え方です。
 愛とは、水で満たしたコップからあふれるようなもので、まず自分の心が満たされていなければなりません。したがって、自分を否定することは、愛を人に与えることよりも、逆に人から愛を得ることにつながります。
 そういう意味で、愛の反対は自己否定だと言えるのです。「自分を愛していない人は他人を愛することはできない」とも言いますし、これも説得力がありますね。
 自己肯定感の低い人はこれがなかなか難しい・・・・。

■愛とは何かを考えることは非常に奥深いこと

 愛の反対は正義、愛の反対は憎しみ、愛の反対は無関心、愛の反対は自己否定・・・。面白いですね。愛をどう定義するかで、その反対の言葉が決まるなんて。
 そう考えると、愛とは人類の究極のテーマなのかもしれません。なんて壮大なことを考えてしまいました。
 いや、「この世界は愛であり、神も愛であり、相対性理論も愛を教えるために編み出した公式だ」とか(アインシュタインが娘に送った手紙の内容)、この宇宙ができた理由は愛からだとか、なんでも愛に結びつける愛最強説も出ています。昭和世代の人間から言えばちょっと言葉に出すのも恥ずかしいのですが(笑)。でもそうかもしれません。

■愛にも段階がある?

 また、愛には発展段階があるそうです。愛する愛→生かす愛→許す愛→存在の愛など、その愛はその人の器とか悟りに応じて発展していくという考え方です。
 愛する愛は家族や身近な人への愛。生かす愛は知恵や経験を通じて多くの人に恩恵を与える愛。許す愛は、自分を傷つける人に対しても包み込む大きな愛。存在の愛は、その人がいるだけで多くの人々が勇気づけられる愛です。確かに「存在の愛」は偉人の愛ですね。
 家族愛から地域や国に住む人々への愛、国境を超えた愛、時代を超えた愛へと広がっていくのでしょうか。死んでもなお後世の人々の心を癒やすことができる愛……。

 こう考えていくと、「自分にとっての『愛』とは何か」が、その人の今のテーマや悟りを表しているのかもしれません。個人的には、大きな愛を成し遂げようとする人は、まず家族とか身内とか周囲の人たちを愛することから初めるべきだろうなと思ってます。
 また今の自分にとっての愛の反対は何だろうなぁと考えることも面白いかもしれません。私にとっての愛の反対は「無関心」かなぁ。できるだけ多くの人や物事に関心を持つことが、今の自分が考えている愛かもしれません。

■愛と信じること

 やっぱり人は「自分の存在を誰かに認めてもらいたい」という欲求があると思うのです。本来は好かれるのが一番望ましいのですが、それが叶わないなら、嫌われても炎上してもいいから相手に自分の存在を認めてもらいたいと。それは哀しいけど人間の本性なのかもしれません。

 そう思うとその対象を人ではなく、もっと大きなものに向ける考え方って大事かもしれません。たぶんこれが信仰なんでしょうか。人の気持ちなんて、ころころ変わるものだから人に愛されることを期待するのではなく、もっと大きな力に愛されていることに気がついて感謝して生きることも大事なことかもしれません。
人から愛をもらうのはもう止めなさい。神である私があなたを愛しているのだから」という視点を与えてくれるのは究極の平安かもしれませんね。昔の人がお天道様や自然に感謝して生きてきたように。

 たまには、ヒコーキエッセイ以外のことも書きたくなりました(^^)。お付き合いくださってありがとうございました。


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