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隠れた名設計者、ロベルト・ルッサーの功績〜その1
今回からドイツの軍用機の設計者たちをシリーズで紹介していきます。
ドイツの航空機メーカーには、メッサーシュミット、ハインケル、フォッケウルフなどがありますが、これらの名前は設計者の名前に由来しています。特にメッサーシュミット社は多くの優秀な技師たちが在籍しており、その中でもロベルト・ルッサーは特に重要な役割を果たしました。
この方はあまり知られていませんが、ドイツを代表する航空兵器の数々の開発に携わり、戦後にはアポロ計画や品質管理の安全性の向上に多大な貢献をした方なのです。驚くべき事に、ドイツを代表する航空機の数々から、アポロ計画にいたるまで、たった一人の男でつながってしまう、それがローベルト・ルッサーなのです。
また、工学系の学生さんなら知っている、あの”ルッサーの法則”で有名な方なのです。
今回はその方の知られざる経歴をご紹介。自分の考察が入る部分から初の有料記事にしました(^^)。
■パイロットとしても名を馳せた若き天才技師
ロベルト・ルッサー(Robert Lusser 、1899年4月19日 - 1969年1月19日)は、最初にパイロットとして名を馳せました。
ルッサーはクレム社の技術者兼パイロットとして活躍していたのです。
1928年に国際軽飛行機競技会で優勝し、その後も数々の大会で優秀な成績を収めました。パイロットで技術者とは夢のような組み合わせですね。
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こういう木製ピカピカの飛行機、良いですね^^
その後、ハインケル社を経て、バイエルン航空機製造(後のメッサーシュミット社)に入社しました。
この当時、自社の飛行機が事故を起こし、苦境に陥っていたウイリー・メッサーシュミットが困難な状況を打破するため、ルッサーをヘッドハンティングしたのです。1933年のこと。ルッサーは34歳でこの会社に加わりました。
■バイエルン社で名機Bf108とBf109を開発
ルッサーがメッサーシュミット社で在籍していたのはわずか5年間(1933〜1938年)の短い期間でしたが、Bf108、Bf109、Bf110などの名機を世に送り出しました。
特にBf108単発エンジンのスポーツ機は、当時としては斬新な全金属製で引き込み脚の低翼単葉機として初飛行し、その斬新なデザインはメッサーシュミット社の名を広めました。
特にBf108は、複葉・固定脚の競技が当たり前の1934年の当時に、全金属製で引き込み脚に低翼単葉の4人乗りスポーツ機として初飛行します。
この航空機は、斬新な技術を多く取り込み、若き天才としてメッサーシュミットとその会社の名を世に広く広めることになりました。
しかし、このBf108、重要な基本設計はこのルッサーだったと言われています。このデザインの流れはその後のBf109、Bf110にも受け継がれますが、ルッサーが退社した後のメッサーシュミット社のデザインを見ると明らかな違いが見受けられますので、ルッサーの影響が如何に大きかったのかが窺い知れます。
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ちなみにBf109,Bf110がメッサーシュミット(Messerschmitt)のMe109、Me110と呼ばれていないのは、このバイエルン(Bayerische Flugzeugwerke) 時代に製造されたからです。
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Bf108とBf109E輪切りの胴体デザインなどは同じですね。量産に向いている構造です。
ルッサーが去った後に開発された、Me210、Me309などはメッサーシュミットの設計傾向に(悪い意味でも)回帰しており、深刻な安定性不足を生じる結果になりました。
その後のMe209、Me309、Me210、Me410の迷走っぷりを見るといかにルッサーの力量が大きかったかが分かります。
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降着装置の故障が多いBf109を意識してなのか、
かなり広い降着装置と水滴風防。
また、Bf109が改良に次ぐ改良ができ、大戦を戦い抜けたのも、ルッサーの好みである余裕のある強度設計であったからだと言われています。ちなみにBf109の弱点とも言われる良く折れる降着装置はメッサーシュミットの設計・・・。
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メッサーシュミットの設計には、どうも狂気のような極めて危険な設計傾向があるように感じます。ルッサーが在籍していた時はそれが表面化されていませんでしたが、彼がいなくなった後のMe210などは、根本的欠陥があり、多くの犠牲者も出し、更にはドイツの生産ラインを混乱させてしまい、メッサーシュミットは軍事裁判にまでかけられてしまいます。
完全に信用を失ったメッサーシュミットは、Me262の設計の際にも軍の干渉が設計にまで及び、かつての精彩を失っていきます。
弦長の長い垂直尾翼がルッサーの設計の特徴でしたが、背は高いが弦長の短い垂直尾翼を好んで使った メッサーシュミットはそれが気に入らなかったようで、いつも意見が対立して関係は険悪だったとか。1938年、事実上のケンカ別れのような形での退社となったルッサーですが、再び古巣ハインケルに戻ります。
■古巣ハインケル社で実用ジェット機He280を開発
さて、古巣ハインケル社に戻ったルッサーですが、向かい入れたエルンスト・ハインケル(1888〜1958年)の心境や如何に。
文献や自伝にはこの下りは描かれていないのですが、個人的には複雑な心境だったのではないかと勝手に推察しています。
それは、ハインケル念願の戦闘機採用の最大のライバルがルッサー率いるメッサーシュミット社のBf109だったからです。しかもヘッドハンティングされ、引き抜かれたルッサーが、その開発にかなり影響を与えていたのですから。「この野郎、余計なことをしやがって」ですよね^^;
ハインケル社の戦闘機He112が試作競争の上、敗退したのをハインケルはかなり根に持っています。「パイロットの支持もあり、性能的にも上回っていたHe112が負けたのは、メッサーシュミットがナチ党員であったからだ」とも(ハインケル自伝より)。
更にHe112で敗れて納得のいかないハインケルは、独自にHe100なる戦闘機を開発し、戦闘機開発の実力を航空省に認めさせようとするくらい執念を燃やしていました。
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そのルッサーが戻ってきたのですから、さあ、どうなのでしょう。こういう舞台裏を想像してみるのも楽しいですね(笑)。
ハインケル社に戻ってきたルッサーは、それでも、「世界初の実用ジェット戦闘機」という冠を狙うべく新型機He280の開発・指導にとりかからせてもらいます。ハインケル、なんだかんだで実力は買っていたのでしょうか。
そして1941年3月早くもジェット推進による初飛行に成功します。
ハインケル社の渾身の自信作でしたが、本機の悲運なのは、エンジンの実用化に手間取ったことでした。エンジンの選定と開発を待っている間に、またもやメッサーシュミット社がMe262を開発、採用競争に当ててきます。
同じユモ004エンジンを搭載する形になったHe280とMe262は、直接審査で性能的に敗退、正式採用が見送られてしまいます。ハインケル念願の戦闘機採用はまたしてもならずです。
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