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救った人に救われたパイロット〜本当にあった戦争の話
「袖振り合うも多生の縁」とは言いますが、見知らぬ人でも、一期一会の思いで大切に付き合いたいものです。そんな大変興味深い話がありましたので背景も調べながらご紹介を。広田厚司著の『本当にあった戦争の話』から。です。
バトル・オブ・ブリテン(英国上空の戦い)における不思議なエピソードです。
◆ユダヤ人を助けたポーランド人操縦士
第二次世界大戦前夜。ナチス・ドイツが絶頂期を迎えた1938年3月。フランスのリヨン市で飛行教官をしていたロマン・トゥルスキーというポーランド人が、複葉機を操縦して生まれ故郷のポーランドのワルシャワへと向かっていました。
この頃はもはやナチス・ドイツの侵略政策は隠すことなく行われており、オーストリアが占領され、戦争が再びヨーロッパを覆うことになることは誰も目にも明らかでありました。
次の攻撃目標は隣国ポーランドであることはもはや明白であり、ロマン・トゥルスキーは祖国のために戦おうと覚悟を決めて帰国をすることにしたのです。
彼の愛機は、リヨンを飛び立ちますが、途中でエンジン故障に見舞われてしまい、ナチスの支配するオーストリアのウィーンに緊急着陸を余儀なくされます。そこで修理をする間、睡眠と休息を取るためにウィーン市内のホテルに滞在することになりました。
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暖かい風呂と熱いスープ、快適なベットで充分な疲労を回復させ、チェックアウトの前に館内の売店でタバコを買い、部屋に戻ろうとした時です。
走ってきた男に突き飛ばされてトゥルスキーは転倒してしまいます。彼はすぐさま立ち上がりその男を捕まえますが、かなり尋常じゃない様子です。その男はドイツ語で「ゲシュタポ!ゲシュタポ!」と叫びました。
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ゲシュタポとは、当時のナチス・ドイツの秘密警察。恐怖の代名詞として恐れられていた特殊部隊です。ドイツ語の分からないトゥルスキーでしたが、この一言で、この男が恐ろしいゲシュタポに追われていることを理解します。
とっさにこの男の腕を摑むと、トゥルスキーは自分の部屋に連れ込み、ベットの下に隠れるように合図をして、その後に追求に来たゲシュタポを追い払うことに成功します。
助かった男は、安堵の様子を浮かべ、必死でお礼を述べました。その後の身振り手振りのやり取りで、この男はユダヤ人であることが分かりますが、一緒にポーランドに連れて行って欲しいと懇願されます。
ナチス・ドイツの支配下にあるオーストリアからユダヤ人を勝手に連れ出すのはトゥルスキー自身にも危険が及びます。関わり合ったのは不運だと思いながらも、彼は男を連れ出すことを了承したのでした。
こうして、なんとか税関を騙してウィーンを脱出した二人でしたが、このままポーランドの空港に着陸しても捕まってしまうのは目に見えていますので、国境近くの草原にトゥルスキーは複葉機を着陸させます。彼の乗機には、墜落した場合を想定して自分の名前を大きく書き込んだ地図があったのですが、トゥルスキーはその地図を男に見せ、今、どこにいるのかを教えました。男は目に涙を浮かべ、礼を述べ二人は別れます。トゥルスキーは所持金の大半を与えて、彼が無事に逃亡ができるように祈ったのでした。
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◆ポーランドの降伏とバトル・オブ・ブリテンの戦闘
それから間もなく、ついにポーランドが侵略されます。トゥルスキーも自国の戦闘機でドイツのBf109らと戦ったのですが、背後からソ連の一撃を受けます。ソ連は不可侵条約を一方的に破棄するとともに80万人もの兵力を送り込んだのでした。ナチス・ドイツとの密約の結果でした。
ドイツとソ連の両方から攻められ、わずか6週間でポーランドは降伏、その後、両国の支配を受け、その後、国民たちは過酷な運命に遭うことになります。
トゥルスキーは、多くのポーランド人たちと共に英国へ逃れると共に、自由フランス軍として、そして1940年のバトル・オブ・ブリテンへと身を投じます。イギリスに逃げてきたポーランド亡命政府は、自由ポーランド陸軍と空軍を編成し、バトル・オブ・ブリテンでドイツ空軍の侵略をくい止めることに貢献します。
89人のパイロットが参戦、イギリス側の全パイロットの5%にすぎないポーランド人パイロットたちは、バトル・オブ・ブリテン期間中の全撃墜記録の12%を叩き出したのでした。特に第303コシチュシコ戦闘機中隊は126機を撃墜、バトル・オブ・ブリテン期間の全66個の戦闘機中隊のなかで最高の記録を挙げてます。トゥルスキーもこれらのポーランド人の一人として勇猛果敢に戦いました。
そんな激闘の戦闘の中、スピットファイアMK.Ⅰを操縦していたトゥルスキーはBf109の急襲を受け負傷します。
気絶しそうにもなりながらも基地に戻り、胴体着陸を行うのですが、頭蓋骨を損傷したトゥルスキーは意識不明の重傷を負います。
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◆重傷のトゥルスキーを救った人物とは
重傷のトゥルスキーは、病院へと急いで運ばれ、外科医のチームが慎重に検討した結果、脳の手術を行えば生命を救うことができると判断されました。
脳の手術は無事に終わり、トゥルスキーが意識を取り戻した時、背の高い白衣を着た男がベットの脇から自分を見下ろしていることに彼は気が付きました。
そして白衣の男はこういうのでした。「私を覚えていますか?」トゥルスキーが混濁した意識の中で否定をするように首左右に振ると、男は「私は3年前にウィーンであなたに命を救われた者です」と言うのでした。
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トゥルスキーは、あの時の脱出行を思い出すのです。やがて意識が回復したトゥルスキーは、その時の彼は、その後、ポーランドからイギリスへ脱出したことなどを聞かされます。
トゥルスキーは「あなたはどうして私の名前を知っていたのですか?」と尋ねます。白衣のその男は、草原であなたの飛行機から降りた時、トゥルスキーの名前が大きく書かれた地図を見せられて知ったのだとのこと。
そして白衣の男が続ける話を聞いてトゥルスキーはびっくり仰天するのです。
「私は、命を救ってくれた人に感謝を表す機会を得ることができました。なぜならば、私は脳外科医であり、しかも、あなたを手術できる唯一の人物だったからです。」
トゥルスキーは偶然にせよ、ユダヤ人の脳外科医の彼を助け、数年後、今度はその彼に命を救ってもらうことになるのでした。本当にあった戦争の話です。
こういうエピソードを聞くと、人知を超えた因果のような何かがこの世界にはあるのだなぁとつくづく感じます。誰も見ていないからとか、知らない人だからとか、人を軽んじたりしていると、巡り巡って再び合うかもしれません。
参考文献
『本当にあった戦争の話』広田厚司
『バトル・オブ・ブリテン―イギリスを守った空の決戦 (新潮文庫) 』
『ポーランド侵攻』(Wikipedia) その他