サントロンの幽霊。ハインツ=ヴォルフガング・シュナウファー
時は第二次世界大戦のヨーロッパ。昼間の戦闘では被害が増大したため、イギリス爆撃機隊は夜間爆撃機に切り替えました。その中で恐れられていた存在がありました。
夜間のドイツ本土への深い侵入において、いくつもの銃座で敵機を注意深く見張っているはずなのに、突如現れる銃撃の閃光が、反撃する暇もなく僚機を火だるまにし、闇の中に消えていく・・・。
そのドイツ戦闘機は、まるで突如現れては消えるゴーストのようだと恐れられ、イギリス将兵たちから「サントロンの幽霊」と呼ばれていました。
今回は、ドイツ空軍の夜間戦闘機パイロット、ハインツ=ヴォルフガング・シュナウファーというパイロットをご紹介します。
◆夜間戦闘専門のパイロットとして
ハインツ=ヴォルフガング・シュナウファー(Heinz-Wolfgang Schnaufer、1922年2月16日 - 1950年7月15日)は、1939年にパイロット訓練生としてドイツ空軍に入隊します。
1941年に第1夜間戦闘教練航空団に配属され、1942年2月に初実戦に参加しました。彼は実戦の翼を与えられた時から、夜間戦闘専門のパイロットとして教育を受けました。
彼の戦場は夜。当時の夜間戦闘機乗りは、昼間の飛行に比べ、着陸などの危険度が格段に増す過酷な戦場でした。
この時、シュナウファーはわずか20歳。初戦果は1942年6月、夜間に飛来したイギリス爆撃機ハリファックスとの戦闘で、負傷しつつも1機目の撃墜に成功します。
1943年7月には第1夜間航空団(NJG1)の中隊長に昇進し、年末には飛行隊長にまで昇格しました。
同年8月には第1夜間戦闘航空団第4飛行隊の中隊長に着任。この部隊はベルギーのサントロンという都市にあり、同年12月にはスコアが42機に達し、この功績により騎士鉄十字章を受章します。
その後、1944年2月には50機撃墜を達成(第4飛行隊通算で500機目)。3月には中隊長から飛行隊長へ昇格。5月24日には一夜にして5機を撃墜します。彼の活躍は連合国でも知られるようになり、彼のいる基地サントロンの地名から「サントロンの幽霊」と呼ばれるようになりました。
1944年9月、戦局の悪化によりドイツのドルトムントへ拠点を移しますが、彼のスコアは伸び続け、10月9日には夜戦スコアを史上二人目となる100機に達成しました。
この功績により、全軍で21番目となる柏葉・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字章を授与されました。
11月4日には22歳で第4夜間航空団(NJG4)の指揮をとり(22歳の航空団司令はドイツ空軍で最年少)、終戦まで生き残ります。
彼は終戦の時まで夜間戦闘機パイロットとして活躍しましたが、その乗機であるメッサーシュミットBf110のみで成し遂げました。
◆イギリス空軍兵に最も被害を与えたと言われるエース
シュナウファーは164回の出撃で121機を撃墜しており、夜戦での121機撃墜は第二次世界大戦における最多記録となっています。
昼間戦闘の撃墜王がエーリッヒ・ハルトマン(352機撃墜)なら、夜間の撃墜王はシュナウファーということになります。
特筆すべき点は、ハルトマンが825回の戦闘機会において352機撃墜(撃墜率42.7%)に対して、シュナウファーはわずか164回で121機撃墜(撃墜率73.8%)という非常に高い撃墜率を誇っています。
密集編隊で飛来する爆撃機相手ということで、チャンスが多かったのかもしれませんが、それにしても驚異的な数字です。
この121機のうち、94%にあたる114機はハリファックスやランカスターなどのイギリス空軍の4発重爆撃機であり、シュナウファーはドイツ空軍パイロットの中で最も多くのイギリス空軍兵の死傷者をもたらしたと言われています。
また、このスコアは、西側連合国軍機の撃墜数としては、ハンス・ヨアヒム・マルセイユ(158機)、ハインツ・ベーア(総撃墜数220機のうち西側で124機)に次いで3位となる記録です。
ドイツの撃墜確認は他国に比べて非常に厳しく、彼の全撃墜リストの詳細も残されています。
彼のスコアは全て夜の間に達成されたものです。敵に気づかれないように忍び寄り、銃火を浴びせるその姿は、まさに突如現れる幽霊のようだったと思います。
シュナウファー最後の乗機であるBf110G-4の垂直尾翼はロンドン帝国戦争博物館に保存されています。
121のキルマークが描き込まれた垂直尾翼は圧巻です。保存しているイギリス人も大したものですね。お互いに死力を尽くして戦った相手を認め合うものなのでしょう。
1945年にはシュナウファーの誕生日に、イギリスのBBCが彼のために特別に『幽霊(Das Nachtgespenst)』を放送したというエピソードが残されているくらいですから。
◆若すぎた最後
彼は戦争を生き延びましたが、釈放後は家業のワイン商を営むことになります。
彼にも平和が訪れたかのように思いましたが、1950年7月13日、ワインの買い付けでフランスに訪れていたシュナウファーはボルドーで自動車事故に遭いました。
彼の乗っていたオープンカーはトラックと衝突し、頭部に重傷を負ったシュナウファーは7月15日に収容先の病院で死亡しました。享年28歳。
幾多の夜の死線を乗り越えた若者のあまりにも早い最後でした。