ドイツ海難救助隊ゼーノートディーンストの物語〜その③
前回の続きです。敵味方関係なく救助するドイツのゼーノートディーンスト(Seenotdienst:海難救助部隊)を攻撃してきたイギリス!救難活動をしている彼らはどうなっていくのでしょうか?
◆ドイツの猛抗議も虚しく・・・
攻撃されたドイツ側は、当然、救難機は「野戦救急車や病院船のような移動衛生部隊に対して交戦国は互いに尊重しあわねばならない」と取り決めているジュネーヴ条約の一環であるとして、イギリスに猛烈に抗議します。
しかし、イギリスのチャーチル首相はドイツ機の救難機はこの条約の想定外であり、該当しないとして異議を唱えます。
そう、チャーチル自身も「我々は再び飛来して我が市民に爆撃を加えるであろう敵パイロットを救助することを容認することはできなかった」と記しているのです。
もちろん、民間主導とはいえ、正式なドイツ空軍下に置かれたゼーノートディーンストは敵国の組織です。赤十字を隠れ蓑にしてスパイ活動や情報収集を行っていると言われればそれまでです。
実際にバトル・オブ・ブリテン(英国本土の戦い)が本格化する直前に、救難用のHe59が相次いでイギリス軍戦闘機に強制着陸させられますが、パイロットがイギリス輸送船団の位置や進路記録を持っていたことから、イギリスは救難機がスパイ機に使われていると疑い始めたのでした。
◆スパイ活動はあったのか?
真相なんですが、実際にスパイ活動もあったのではないかと思われます。海難救助隊とはいえ、軍の組織ですから上層部の命令があれば断ることもできないでしょう。
当時は、敵兵に対する人道的な配慮は、まだ薄い時代だったかもしれません。実際にアメリカ軍のパイロットは、撃沈や不時着水で洋上にさまよっている丸腰で無抵抗の日本兵たちを機銃掃射した話もかなり残っています。
しかし、現場での大多数の彼らは、目の前にいる遭難者を敵味方の別け隔てなく救助することに奮闘していたと思います。
やがてイギリス側の攻撃が増加するに従い、彼らもついに身を守るために武装をせざる負えなくなりました。
また目立つ白塗りの機体も運用地域に応じたカモフラージュ塗装を施すようになり、民間機の登録記号と赤十字のマーキングは放棄されました。
そして救難飛行には可能な限り、Bf109戦闘機などの護衛がつけられることになるのでした。
◆それでも救難活動を辞めないゼーノートディーンストたち
ドイツ海難救助隊は、その犠牲を出しつつも苦しい状況でも救難活動を続けます。
1941年5月には地中海のクレタ島起きで沈みつつあるイギリスの軽巡洋艦グロスターの生存者救出のためにDo24飛行隊が向かい、65名もの敵国であるイギリス海軍の兵員を救助しました。全体の生存者が82名と言われていますので、約8割がドイツ側に救助されたことになります。
闇に乗じて生存者を救出するための船が派遣されるのが海軍の伝統ですが、味方の救助派遣は行わませんでした。生存者の大多数がドイツ側に救助されることになりました。
ゼーノートディーンストは、約1,000回の救助活動が実施されたものの、多くの機体が撃墜される部隊もありました。その中には自分たちを救助してくれた飛行艇もあったことでしょう。
戦艦ローマからのイアリア海軍の兵員救助活動では5機中の4機が撃墜されるるも19名ものイタリア兵の救助に成功しています。
◆海難救助隊の他国への影響〜光と闇の功罪
イギリスとアメリカ合衆国の航空関係指導層は、これらのドイツ海難救助隊の成果を見ると、見習って自国の救難組織を編成することになります。そして、それは戦後にも多いに活用されることになるのですが、命がけで救助してきたゼーノートディーンストたちにとっては名誉なことでしょう。
しかしながらさきほどのスパイ活動の疑いの事実と共にとある事実も公平に記しておきたいと思います。それはナチス・ドイツの恐るべき人体実験でした。→続きます。
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