里子に出されて活躍できたP-39エアラコブラ〜コブラの系譜その1
第二次世界大戦中の戦闘機、ベル社のP-39エアラコブラとP-63キングコブラ。両機はそのコブラの名に恥じない37mm砲という強力な毒牙を持つために生まれた戦闘機でしたが両者とも数奇な運命を辿ります。今回はこのコブラの名をもつヒコーキたちの話を。
◆「自分たちがつくるものは敵も作るはずだ」という発想から生まれた飛行機
1930年代の後半の列強諸国では、高性能戦闘機が続々と生まれてきており、アメリカはちょっと出遅れておりました。
西洋諸国のBf109やスピットファイアなどに対して、こちらはP-35やP-36という、お世辞にも高性能とはいえない戦闘機だったからです。
そこで、「新たな高性能戦闘機を開発しなくちゃいけない!」と、議会で声があがるのですが、ちょうどその時期にボーイング社で高々度用の排気タービン過給器を備えたエンジンが開発され、戦略爆撃機の開発のメドが立っていました(後のB-17爆撃機)。
高々度を飛来する戦略爆撃機。「もし敵国がこのような爆撃機を作ってきたらどうする?」まあ、当然といえば当然の考え方なのですが、「自分たちがやろうとしていることは相手もやるはずだ」という風に考えますよね。
そこで、新しい高性能戦闘機は、高々度用防空用の迎撃戦闘機が必要という話になり、各社に要求が下されます(実際にはドイツは長距離爆撃機は失敗に終わり、日本はそれどころではありませんでしたので、アメリカの杞憂に終わるのですが)。
この要求に対して開発されたのが、ロッキードのP-38ライトニングと、このP-39エアラコブラなのです。どちらも当時は斬新というか、奇抜なスタイルを用意してきました。
P-38は単座戦闘機なのに双発で双胴というスタイル。かたやベル社が用意した案は、エンジンを胴体中央に置いてしまうというものでした。
◆強力な火砲を積みたいという一念で生まれたP-39
P-39はというと、強力な機関砲を用意します。これは、高々度迎撃で敵爆撃機を攻撃するためのもので、そのために、エンジンを操縦者の前ではなく、胴体の中央部分に置き、延長軸でプロペラを回し、その軸の中に37mmの機関砲を設置するという奇抜なアイデアを思いつきます。
このアイデアは、ちょうど重心位置近くにエンジンを配置するので慣習能率が小さく運動性も高くなり、さらに胴体前方が小さくて済むので視界も良好とよいことずくめ。
エンジンも当時は軍事機密の高々度用排気タービンエンジンです。
ここまで斬新的な技術を盛り込むと、大抵結果は失敗するものですが、しかしそこは、工業大国アメリカ。
エンジンから長く伸びる延長軸の強度問題や減速機構の振動問題なども上手く解決してしまいます。日本の戦闘機「雷電」ではこの延長軸の振動問題ですごく苦労したのに・・・。
1938年に試作機が初飛行して、6,000mまで5分、最大速度628km/hと、なかなかの高性能ぶりを発揮するのですが、陸軍は何故か、増加試作機から排気タービンを廃止することを要求してきます。
理由は定かではないのですが、排気タービンの過熱問題のメドが立たなかったとか、P-38ライトニングを本命にしたとか、イギリスへの機体の供給が決まっていた矢先、最新鋭の排気タービンを他国へ渡したくなかった等など。
◆若きコブラは他国へ出されることに・・・
いずれによせ、この命令で、若きコブラの運命は決まってしまいます。大量発注はすでに決定事項でしたが、最初の量産型P-39Cでは、与えられたエンジンでは時速も600km/h程度まで低下し、以後は改良すればするほど重量が増し、性能低下の一路をたどることに・・・・。
更にはやはり斬新のアイデアにはボロが出るといいますか、致命的な欠陥が20箇所近くも出てきます。火器の発射後に操縦席に一酸化炭素が充満してきたり、機動性や加速性が他国の戦闘機に劣っていたりなど。
前方にエンジンがないから具合がよいかと思いきや、機首の機銃孔から入る風も相当寒かったようで。そうか、エンジンは暖房の役割も果たしていたんですね^^;
これでは使いものにならないのですが、既にとイギリスへ輸出することは決まっていましたので、排気タービンを抜いたP-38ライトニングIと共に送られることになりました。しかし、イギリスでも期待外れの性能ということで、僅かな期間で運用中止を下されます。
けれども、そこは悪知恵働くブリカスのイギリス。180機あまりをアメリカへ送り返し、残りの約200機をソ連に送りつけてしまいます^^;
◆性能は使い方次第?大活躍した地上攻撃
しかし、独ソ戦で苦戦中のソ連では運用方法が違っていました。高々度用の性能よりも地上支援が中心でしたので、エアラコブラの持つ強力な機関砲が役に立ったのです。迎撃ではなく地上攻撃特化の任務が急務だったのです。
また低空域での空戦ではドイツ戦闘機とも十分対抗できたとのこと。本機の頑丈さや重武装が歓迎されて、何だかんだで合計4,773機ものP-39が生産され、ソ連に送られることになります。
かたやアメリカに送り返されたP-39たちは、太平洋戦線に駆り出され、零戦の格好の餌食にされてしまいます。中高度域での性能で不利だったことがその理由として上げられています。日本のパイロットたちからはその形状から”カツオブシ”と呼ばれていました。
結局P-39は1万機近くも生産されますが、うち約半分は遠い異国の地、ソ連に送るためのもので、アメリカ本国では1943年以降、第一線から早くも退くことになるのでした。
生産機数も1万機近くもあるのに、あまりぱっとしないのは、異国の地で、もっぱら地上攻撃に使われていたというのも関係しているかもしれません。それでも、遠い国へ里子(さとご)に出されたことで大活躍できたことは、P-39にとってよかったことかもしれませんね。
しかし、コブラの人生はこれで終わりではありませんでした。生みの親であるベル社は、本来の任務である高々度迎撃任務を果たすべく、P-39を徹底改良をし、P-63としてリベンジを誓うのでした。
この機体は「キングコブラ」と称されます。そういえば蛇は執念深いのでした。→続きます