接着剤や加工の苦難。木製に戻った大戦機たち〜その3
第二次大戦時は、金属資源が枯渇することを予想して各国で軍用機の木製化プロジェクトが行わていました(超資源大国アメリカは除く)。
イギリスではデ・ハビランド・モスキートという優秀な軍用機開発に成功し、かたやソ連では、性能が落ちても質より量という形で、様々なソ連機がドイツ機相手に奮闘していました。
ではドイツや日本ではどうだったのでしょうか。今回はその話をしていきます。
◆フォッケウルフTa154の墜落!その原因は?
ドイツ空軍は、1942年8月に新型夜間戦闘機の開発を航空機メーカー各社に指示するのですが、その仕様に「戦略物資を極力使用せず」の項目が刻まれます。要はアルミニウムやジュラルミンなどの金属資源をあまり使わずに製作しろという要求です。技術者たちの脳裏には、活躍中のあのデ・ハビランド・モスキート木製機が映ったのは想像に難くないと思います。
フォッケ・ウルフ社のクルト・タンク技師は、この依頼書に応え、木製の双発戦闘機の計画を提出します。これが航空省に採用され、Ta 154として試作命令が出されました。試作第1号機は、1943年7月に初飛行、木材の使用率は50%、半木製軍用機といった感じです。最高速度は638km/hなのでデ・ハビランド・モスキートに対抗できてます。非公式にもモスキトー(Moskito)と呼ばれていました。対抗意識丸出しですね。
性能も申し分なく、さっそく量産体制に入りますが、ここで思わぬアクシデントが。強化合板を接着するための接着剤の原料工場が連日の連合軍による爆撃で被災してしまいます。
この材料の工場が被災してしまい、仕方なく代用品で製造したところ、これが不幸にも連続して墜落事故を起こしてしまいます。
接着剤の技術は、当時はかなり高度な技術で、ドイツでは接着剤の原料となるホルムアルデヒド樹脂をソ連に輸出しているほどでした。
独ソ戦が始まり、ドイツからの接着剤の供給が底をつくと、ソ連もデルタ強化合板が製作できなくなり、通常のベニヤ合板に戻ったりと困窮しています。
結局、接着剤の改善の目処が立たず、初飛行から約1年、1944年8月には本機の開発は中止、製造されたのは30〜50機程度になりました。
木材の接着は、金属のリベット打ちとは違い、目に見えないので、果たしてどれだけ接着が成功しているのかが分かりにくいのです。この接着剤の結合問題も木造軍用機にはつきまとうことになります。
とはいえ、金属資源が枯渇してきたドイツでは、どんどんと木造化を勧めていき、最新鋭のジェット戦闘機にも木製前提で開発されていくのでした。
◆日本の木製化プロジェクトの行方は?
日本では、1943年に木製化プロジェクトがいよいよ本格的にスタートします。同年、すでに量産化している双発哨戒機「東海」の全木製化と、新規の大型輸送艇「|蒼空《そうくう》)」の試作がスタートしました。
そして空技廠の方でも研究のために実際に軍用機の木製化を行うことになります。習作用として選ばれた機体は、すでに旧式化しつつある九九式艦上爆撃機です。これは「明星」と名付けられました。
接着剤の失敗はいわば製造工程の失敗ですが、日本でも同様のことが起こりそうになりました。
翼桁のサンプルで出来上がった積層材の強度試験をする前に、女子工員が掃除の際に立てかけてあったサンプルを数本倒してしまい、そのうちの一本がポッキリと折れてしまったのです。
女子工員はひどく怒られましたが、びっくりしたのは担当者です。主翼の重要な部分である翼桁が倒しただけで折れる?なんで?
偶然の事故が幸いし、さっそく調査が始まります。未知への試みには予期せぬ出来事が起こるもの。その原因は意外な所にありました。
◆積層材の意外な弱点。トライ&エラーの繰り返し
積層木材は何枚もの板に接着剤を入れて加圧してつくります。木材には樹脂(ヤニ)が含まれています。これを加圧すると繊維方向にヤニが出て来るのですが、長尺の場合、一度に加圧できないので、部分的に加圧しては次々に動かすことになります。
すると、場所によっては、押し出されたヤニが行き所がなくて、一箇所に貯まる場所ができてしまうことに。これが固まると、そこだけ樹脂の塊の部分ができてしまい非常に脆くなるのです。
ちょうど竹の節のような感じを作っているようなものになり、節の部分が脆くなる形で出来上がっていたのです。
当時この桁を製造したのはピアノなどの木製楽器を製造していた日本楽器さん。楽器以外に木製プロペラなどの製造をしていたので翼桁の製造も依頼を受けるのですが、翼桁の製造に使用するような長尺のプレス機はありませんでした。
木材の熟練工とはいえども何十メートルにも及ぶ積層木材は始めてのことですし、最初から無理な話だったといえます。
初めてのことは、このようにトライ・アンド・エラーの繰り返しになるのですね。
材料部の若い技術少尉が責任を感じ、喉を切って自殺をはかる事件も起きました。幸いにも命はとりとめたそうですが、そこまで命がけで開発を行っていたことを窺い知ることができます。
このように接着強度不足は、どこの国でも始めてのことで、試行錯誤で数々の失敗を繰り返しながらも開発を進めていくことになります。
さて、この長い翼桁を加工する長尺の高圧プレス機を探せということで白羽の矢が立ったのが、あの有名な経営の神様、松下幸之助氏です。
松下幸之助氏の松下木材工業に大型の高圧プレス機があることが分かり、メーカーを変更して試作に取り掛かります。
最終回はこの松下幸之助が取り組んだ木造軍用機の話を。→続きます
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