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悪い親を見本にすると悪い子になる?「深山」の悲劇。日本にもあったB-29規模の大型機

 子供は親の後ろ姿を見て育ちますが、良い親も悪い親も、子供にとってはたった一つの親であり見本です。良くも悪くも多大な影響を与えてしまうものです。今回はそんなお話です。

◆アメリカにバレていた?見本で購入した旅客機は失敗作だった。

 第二次世界大戦前夜の1937年。日中戦争(支那事変)が始まった年、パナイ号事件(日本海軍機が間違えてアメリカのパナイ号を撃沈した事件)が起き、アメリカとの関係も険悪となってきました。
 この当時、帝国海軍は、航続距離が格段に大きい大型四発の陸上攻撃機の開発を企画していたのですが、まだ、大型機の開発は困難でしたので、技術的に見本となる飛行機を探していました。アメリカは日本にとっては、学ぶべきことが多い、技術大国でもあったのです。
 そんな最中にパナイ号事件で日米間での緊張と対立が起きたこともあり、軍部が直接、購入することができなくなります。
 そこで、民間の大日本航空名義でダグラスDC-4Eを輸入させることにして、これを参考にした試作「十三試大型陸上攻撃機」の開発を中島飛行機に命じることになりました。
しかし、このダグラスDC-4E、実は計画が中止になったばかりの失敗作だったのです。
重量超過と機構の複雑さ、維持費のコスト高、整備性の悪さなどが問題になり、改めてシンプルな機体を製作する計画にし直しことにします。これが後のDC-4になるのですが、名称は似ていても、まったく別の機体であるのでした。

グラスDC-4E

 DC-4Eは1機の試作のみで開発中止が決定しましたが、そんな折にちょうど日本から打診がきていたので、この失敗作を売り払ってしまいます。
 何ともえげつないですが、アメリカにしてみれば、やがて敵対する可能性のある日本にみすみす手を貸すわけにはいきません。
 また、民間航空の背後に帝国海軍が欲しがっていて、偽装工作をしていたことを察知していたとも言われてます。

実は失敗作を参考に開発した深山

 日本では、このDC-4Eを中島飛行機に渡し、徹底的に分解して構造を学ぶことになるのですが、こうして完成したのが「深山」です。
日本海軍初の四発陸上機で、全長、全幅がB-29にほぼ匹敵するという海軍最大の大きさを誇るものになりました。
 主翼、降着装置、油圧・電気系統などDC-4Eと同一か、参考にしたものでしたが、胴体などは新規に設計したものでした。

 さて、この深山、見本としたDC-4Eが失敗作であったことから、当然の如く、トラブル続出になります。前例のない大型機の開発に技術が追いついていかないところへ、手本となる機体が失敗作だったので、「鳶が鷹を生む」ことはありませんでした。
 手本の親と同様、機体重量の増大化と電気構造のトラブル、運動性の悪さなど問題が続出し、出来上がった機体も「馬鹿鳥」という不名誉な渾名を付けられてしまいます。
 1943年、試製「深山」と正式に改称されたものの、6機の試作だけで、不採用となりました。それでも、せっかく作った大型機ですので、輸送機として改造され「深山改輸送機」として本土からテニアン島、マリアナ初頭への輸送に用いられました。
 現場では、これだけの積載量はけっこう重宝されていたようです。

◆「深山」を反面教師として「連山」へ。

 さて、今回の失敗の経験は反面教師とすることで、次なる知恵となって活かされていきます。経験を積んだ中島飛行機たちのスタッフたちは、今度は当初より徹底した重量管理や戦時下の生産性を考慮した簡易な構造化、最新の実績のある技術を駆使して「連山」を開発します。
 また南方で捕獲したB-17爆撃機を徹底的に分解・調査をして、新たな参考技術として取り入れます。

 初飛行は1944年10月。生産数は4機でしたが、戦局の悪化から1945年6月に試作計画自体が中止となってしまいました。実際の性能は未知数のままに終わってしまいます。 

戦後、アメリカ軍に接収された連山

 子は親の後ろ姿を見て育ちます。「親のこういう面が嫌だった」と思っているだけだと、見本がひとつだけですので、自分も親になった時に、子供に同じようなことをしてしまうというのもよくある話です。
 良いことは手本として学び、悪いことは反面教師として学び、他から良い見本を探すことも大事だと思うのです。子供から大人になる時には、そういう自分の人生を振り返って、自分にとって必要な、経験と学びを積んでいかないといけません。そう思います。

連山の三面図

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