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山本長官を守れなかった男の最後。杉田庄一
■山本五十六司令長官機急襲!
太平洋戦争の開戦から2年半近く経った1943年4月18日。前線を視察中の山本五十六海軍大将がアメリカ軍のロッキードP-38Gライトニングにより撃墜、戦死する事件が発生します(海軍甲事件)。
日本軍の暗号電報が事前にアメリカ海軍情報局に解読され、待ち伏せを受けたことから発生したこの事件の状況ですが、山本長官が搭乗している一式陸上攻撃機が2機、護衛の零式艦上戦闘機6機に対し、アメリカのP-38戦闘機16機の襲撃で行われています。
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この護衛戦闘機の6機の搭乗員のなかに、後の日本海軍第3位の撃墜王と言われる杉田庄一飛兵長がいました。
ちなみにこの時の6人は以下の通りです。
第1小隊長 森崎 武 中尉(指揮官・兵庫県神戸出身)
2番機 辻野上 豊光(一飛曹・三重県伊勢市出身)
3番機 杉田庄一(飛兵長・新潟県上越市出身)
第2小隊長 日高 義巳 (上飛曹・鹿児島県屋久島出身)
2番機 岡崎 靖(二飛曹・埼玉県鴻巣市出身)
3番機 柳谷 健治(飛兵長・北海道美深町出身)
戦闘は柳谷機が相手を1機撃墜したものの、多勢に無勢で、一式陸攻は2機とも撃墜されてしまいます(うち、宇垣参謀長の一式陸攻は不時着後救助)。
連合艦隊司令長官の山本五十六は、日本海軍の象徴そのものでありました。戦死となれば、海軍全体の士気が低下することは避けられません。このことを恐れた軍部は、緘口令を敷きます。
ラバウルから帰還した彼ら6人にも「全軍の士気に影響すること故、決して口外せぬよう」と厳重な口止めをするのです。
大任を果たせなかった彼らの心中や如何に。二度と内地の土は踏めないものと覚悟したのか、彼らは過酷な戦場に身を投じ、散っていきます。隊長の森崎中尉は母親への便りに「腹を切って詫びたい思いである」と書いたほどであったとも・・・。
背負った十字架はあまりにも重く、その後、彼らは「懲罰的に死地に赴かせたのではないか」という噂も出るくらいに一層過酷な戦争に身を投じ散っていくことになります。
山本五十六長官の戦死から、わずか2ヶ月のうちに6人のうち森崎、辻野上、日高、岡崎ら4人は後を追うかのようにソロモンの空に散ります。
残った杉田、柳谷両名も、何度も死線をくぐり抜け多くの敵機を撃ち落としますが、柳谷は右手首を失う重傷を負い内地に送還されることになります(柳谷氏は、戦後も生き延びて82歳の長寿で人生を全うします)。
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■戦地に一人残された杉田庄一の激闘が始まる。
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さて、6人のうち4人が戦死し、一人が重傷を負い内地へ送還され、ただ一人残された杉田庄一はその後も戦い続けます。
彼の過去の初戦果は、B-17なのですが、それは銃弾によるものではなく、体当たりを仕掛けて敵機の右翼をもぎ取り撃墜したという勇猛果敢なものでした。彼についた渾名は「闘魂の塊」。そして、その名に恥じない戦いを続けますが・・・。
山本長官の戦死から4ヶ月後、空戦の最中にエンジンに被弾、杉田の零戦は猛火に包まれます。火だるまとなった機体から脱出をするものの全身に火傷を負う重傷でしたが一命をとりとめます。
杉田はラバウルの海軍病院から内地に送還され、治療にあたります。手首切断となってパイロット生命を失った柳谷に対し、彼のパイロット生命はまだ失われていませんでした。
杉田は、復帰後、大村航空隊の飛行教員に着任。ソロモン戦域最多撃墜数保持者として坂井三郎と共に表彰されます。 第263航空隊に配属になり、グアム、マリアナ、カロリン、ヤップ。フィリピンへと解隊、編入をしつつも、転戦につぐ転戦で活躍をします。
彼は特攻隊の護衛を担うという辛い任務にも携わりました。思う所があったのか、自らも特攻も志願するのですが、実力者の杉田を失うことは特攻の護衛の痛手となることから、上官から志願を止めるよう諭されることもありました。
■空戦のエキスパート部隊343航空隊へ
B-29が日本本土へ襲来し、空襲がいよいよ本格化しはじめた1944年12月。日本海軍は、零戦に代わる新鋭戦闘機「紫電改」による航空戦のエキスパートを集めた戦闘機隊を結成します。源田実大佐を司令とした第343航空隊(以下343空)の誕生です。
杉田庄一はこの部隊の301飛行隊「新選組」に配属されます。飛行隊長は有名な菅野直大尉(1921〜1945)。公証記録72機撃墜のパイロットエースの一人です。
杉田はその激烈な戦いぶりから「闘魂の塊」と渾名される一方、豪放磊落な人柄で人望も厚く「杉さん」の愛称で呼ばれました。
自身の戦闘だけでなく後進の指導にも努め「空戦の神様」と言われ、343空では兄のように皆から慕われていたとされています。
343空にはベテランも多く集められましたが、杉田はその中でも一番の撃墜数を持っていました。
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彼らの奮闘は目覚しく、未帰還機15機に対して57機もの撃墜(地上砲火あり)をあげたこともあり、この日、杉田隊は撃墜賞を受けます。
■杉田庄一の最後
彼の最後の戦闘は4月15日。
沖縄に上陸した米軍を攻撃する「菊水作戦」の支援のために鹿児島県鹿屋に移動した杉田隊は、この日、敵機を攻撃すべく離陸している最中に急襲を受けます。体制が整わないまま、杉田は僚機と共に被弾し、飛行場に突っ込みました。
酒豪で野性味溢れた、「闘魂の塊」、「空戦の神様」と言われたエースパイロット杉田庄一の最後でした。享年僅か20歳。
彼の撃墜数は 単独撃墜70機、共同撃墜40機が公認ですが、実際は120機以上とも言われています。
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杉田は若いながらも豊富な戦場経験から、部下への実戦的な空戦指導が上手かったと言われています。
彼の部下の一人である笠井智一氏の証言によると、杉田は訓練の際に無駄な説明はせず、列機と共に空に上がって、まず杉田自身が模範飛行を行い、その後を列機に同じ操作をさせて追聶するように指導するので、驚くほど短期間で覚えることができたとのこと。
343空において杉田隊の徹底した編隊運動を可能にしたのは、彼の細やかな指導と紫電改の自動空戦フラップがあったからだろうと笠井氏は後世語っています。
個人的には、個人プレーや、戦歴を追い求める一匹狼のようなエースより、仲間を死なせないために徹底して訓練を施そうとする彼の人格に惹かれます。
<参考文献>『六機の護衛戦闘機―併載・非情の空 』『日本陸海軍航空英雄列伝』など