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レッドバロンと騎士道精神

 時は第一次大戦のヨーロッパ。深紅に染まる複葉機を駆って大空を華麗に舞った無敵の撃墜王がいました。彼の名はマンフレート・アルブレヒト・フォン・リヒトホーフェン(18921918)
 中世の騎士道精神そのままに、栄光と名誉を賭けた戦いは、人々から「レッドバロン(赤い男爵)」と称賛され、今日に至るまで語り継がれています。彼の振る舞いは、敵味方問わず尊敬を受け、没後間もなく100年以上経っても彼の名声と影響力は残り続けています。
 日本では、中古バイク車販売店の「レッドバロン」や、ガンダムの「シャア・アズナブル」もモデルになっているなどアニメなどにも影響を与えていますね。「男としてはかくありたい」という想いが未だに人気の秘密なのかもと思います。
 今回は第一次世界大戦、最高の撃墜王として名を残したリヒトホーフェンについて触れてみたいと思います。

撃墜リヒトホーフェンと赤いアルバトロス D.IIIと彼の仲間達

◆貴族として戦争に従事

 彼はシュレジエン地方のブレスラウ(現ポーランド共和国ヴロツワフ)に1892年5月2日に生まれます。
 貴族の嗜みでもある狩猟や乗馬を楽しむ少年時代を送り、11歳で士官候補生となります。
 学校での成績も優秀で、更にスポーツ万能、性格も勇敢で勝ち気なプライドも持ちつつも、リーダーシップも兼ね備えた、正に絵に描いたような王道漫画の主人公のようなタイプでした。「貴族たるものかくあるべし」の枠に自他共に育ってきた感じですね。
 貴族というと聞こえはいいですが、その責務というのは、戦争が起きた場合は、真っ先に参加し、一般市民よりも先頭に立って戦うこと。これが貴族の貴族たる所以でした。
 英国ではこれをノブレス・オブリージュ(noblesse oblige:仏)]と言って、「高貴さは義務を強制する」という意味になるのですが、要は財産、権力、社会的地位の保持には必ず責任が伴うことを指しています。いやぁ、日本のリーダーたちに聞かせたい(笑)。
 貴族の存在が一般人から許されているのは、いざという時に一番危険な場所に赴き、先頭に立って戦うからなんです。
 1982年のフォークランド紛争の際も、イギリスのアンドリュー王子がヘリのパイロットとして参戦しましたが、あちらでは当たり前のことなのですね。ですので、ひとたび紛争、戦争が起きれば貴族の死傷率は高かったと思います。

岐路に立つ騎士(ヴィクトル・ヴァスネツォフ画、1878)

◆飛行機乗りに憧れたリフトホーフェン

 1913年、リフトホーフェンは当時最も人気のあった騎兵隊に士官候補生として入隊します。リヒトホーフェン家の名誉を守るべく、真っ先に敵陣に入る役割の槍騎兵として参加するのです。
 しかしながら、翌年に始まった第一次世界大戦は今までの戦争とは様相が大きく異なっていました。
 敵をなぎ倒す機関銃や空から襲いかかる飛行機、逃げ場のない毒ガス、兵士を簡単に蹂躙する戦車など、今までなかった兵器が続々と投入され、戦場での騎兵の活躍の場はあっという間に失われていくことになります。
 旗をはためかして突撃するなんて行為は戦場では、もはや自殺行為の何者でもないという状況になっていくのです。塹壕戦に突入すると騎兵隊は役立たずになり後方へ送られることになります。
 そんな失望のなか、リヒトホーフェンは最新鋭の兵器、空を駆ける飛行機を見て心を奪われます。時は1915年5月のこと、彼は槍騎兵部隊から転属願いを出し、飛行機乗りを目指します。

当時の飛行機乗りは憧れの象徴でもありました(映画レッドバロンより)

◆「赤い男爵」の誕生

 当初は偵察任務だったリフトホーフェンも、任務が戦闘となり戦闘機パイロットとして戦います。その素質があったのか撃墜数を上げていきます。
 ヒトホーフェンの機体は真っ赤に塗られていたことで有名なのですが、これも、ある日、ふと機体全体を赤くしようと思い立ったからとのこと。目立ちたいのか、自信に満ち溢れた性格の現れともいえますが、それに見合う実績を出していたのも事実です。
 全身真っ赤の彼の機体は実績とともに有名になり、ドイツのプロパガンダとしても利用され大いに宣伝されるようになります。
 ドイツの優勢は戦闘機開発の優位も相まって「フォッカーの懲罰」など言われるように、ドイツ側に優位な状況が、1917年序盤まで続きます。
 特に「血の四月」と言われる戦いでは、ドイツ66機の損害に対し、イギリス側が245機の航空機を失うという一方的な戦いになります。

第一次世界大戦では速度も遅いため、敵味方入り交じる空戦になります。

 リヒトホーフェンもこの時に撃墜数を更に積み上げていき、1917年6月には第1戦闘航空団指揮官に任命されます。この部隊はのちにリヒトホーフェン戦闘機中隊と改称され、またイギリス軍からは「空飛ぶサーカス」と呼ばれ、大戦中の伝説となっていきます。
 この部隊は、当時の最高位のプール・ル・メリット勲章授与者を6人も輩出し、この部隊の総撃墜数は敗戦までに535機という、驚異的な記録を残します。
 彼は、そんな優位な中においても、極力パイロットを殺すことをしないという騎士道精神を発揮し、敵からも一目置かれるようになります。
 仲間内でも協同撃墜の場合は戦友に功名を譲ったり、ストイックで責任感のある人物評が残されています。 

赤いアルバトロス D.IIIに乗るリヒトホーフェン機

◆撃墜王の負傷、そして内面の変化

 しかし、戦争はそんな個人らの活躍をも大きく飲みこんでいきます。
 ドイツ空軍の優勢も、英仏の新型機の参戦、アメリカの参戦と海上封鎖による物資の枯渇、そして連合国軍の物量の前に、徐々に陰りを見せ、彼の仲間たちも一人、また一人と戦死していきます。リフトホーフェンの内面にも徐々に暗い影が忍び寄ってきます。
 1917年7月。彼はこの時、長距離からの銃弾を頭部に受けて裂傷、負傷しました。すぐに復帰し、撃墜数を重ねるも、激しい頭痛とめまいで倒れます。彼は今回の負傷を敗北として捉えたようです。自信喪失になり、実家で数ヶ月間養生することになります。
 この負傷後、自信にあふれたリヒトホーフェンは影をひそめ、目下の者にも格式ばらなくなり、ひどく打ち解けた態度を示すようになったといいます。貴族としてのプライド、自信に満ちた性格にも変化があったようです。
 個人的には、もしかして脳へのダメージの影響があったのではないかと思います。性格が変わるとはよく聞く話です。
 また、戦争という集団の押し寄せる力に対し、個人の力で立ち向かうことの限界も感じ始めていたかもしれません。
 彼は約2ヶ月間の養生の後、部隊に復帰するのですが、追い打ちをかけるように片腕として信頼していた戦友がすでに戦死していました。

◆撃墜王の最後

 彼が部隊に戻った約半年後の1918年4月21日の早朝のこと。前日にも2機の英軍機を撃墜してついに80機の撃墜数を上げたリヒトホーフェンは、フォッカーDr.I に乗り込み、敵のソッピース・キャメル戦闘機との交戦に入ります。
 敵味方入り交じる中、地上からの銃撃も加わり、リヒトホーフェンは肺と心臓に致命傷となる銃弾を受けてしまいます。機体はそのまま不時着したものの、彼の命はその場所で、そのまま尽きてしまいました。彼の総撃墜数は83機。紛れもなく大戦最高のスコアであり、エース中のエースでした。若干25歳の若さでした。彼に致命傷を与えたのは誰だか未だに確定していません。
 前から公言していた「真の戦闘機乗りは死ぬまで操縦桿を離してはならない」をまさに守った形の死でした。

 彼の遺体はイギリスに手厚く葬られ、イギリス軍はドイツ軍の陣地上空から「リヒトホーフェン大尉に捧ぐ」という花輪を投下して哀悼を表したといいます。戦後、1925年に国葬が行われます。そして、そこには、かつての敵国のパイロットたちの姿もありました。戦った者同士が分かる何かがあったのでしょう。
 大空を駆け抜けた空の英雄は、敵味方の区別なく、今も若者たちの彼らの心の中をいつまでも飛び続けていると思います。

リヒトホーフェンとその主な乗機


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