「(K)not」第一話
駅から20分。
バスを降りて、深い緑に覆われた坂道を東へ登る。
焼けたアスファルトの上で大きく息を吸い込むと、土の匂いがした。
風が吹かない坂の途中、樹々が作る日陰に逃げながら一層賑やかな蝉の声を聴く。白い日傘は先を歩く家族の背中を追いかけた。
やがて視界の先が開けると、青い芝生に点々と雲のように浮かぶ白い墓標が見えてくる。
坂の終わりは高台の霊園だ。
抱えた白百合を白い墓標に手向け、晴三郎は額の汗を拭った。聖名は寂しげな父の横顔に日傘を傾けてやる。
社会人になって五回目の夏を迎えた有馬が、墓標周りの雑草を毟り汲んできた水を撒いた。袖を捲った白いシャツから伸びる腕はよく陽に焼けていて逞しい。
日傘を傾けて振り返ると、有馬の弟の襟人と彼より一つ歳下の理紀が並んで手を合わせていた。
少し離れた銀杏の木にもたれているのは、聖名と同い歳の爽。学年は同じだが別々の学校に通っている、理紀の実弟だ。
正一郎は、有馬が掃除を終えると線香に火をつけた。長身で良く似た彫りの深い顔立ちの父子が並ぶと否応無しに人目を引く。有馬はいつの間にか正一郎の背丈を越えていた。
ハンカチを尻のポケットにしまい、正一郎から線香を受け取った晴三郎は明るい緑色の髪の少年に声を掛けた。
「マド、いい加減スマホ弄るのやめなさい。」
窘めても生返事だけで一向にやめようとしない瞬は、学校が夏休みに入ったとたん、髪を染めた。それはそれは鮮やかな緑色で皆は面白がったが、晴三郎は末っ子が不良になったと嘆いた。
襟人からも促され、渋々墓前で手を合わせる緑頭の弟の隣りで、聖名は再び黙祷する。不意に背後からシャッターの音がした。
親戚が集まると、いつも知らぬ間に和二郎の被写体にされている。アルバムに残る氷川家の女性たちは皆、姦しく明るく華やかだった。彼女たちはが乗った旅客機が、大勢の乗客とともに忽然と姿を消したのは七年前のことだ。当時捜索は難航し、墜落したと思われる海域に生存者がいる可能性は極めて低い状況だった。
文字通り、海の藻屑と消えたのだ。
如何に粗忽者の彼女らでも、墓前の集合写真にうっかり写り込むことは一度も無かった。遺体も遺品ですらついに見つからなかった。だから白い墓標の下は空っぽだ。彼女らが亡くなった証拠は何も無い。
彼らは毎年それを確認して、来た道を帰るのだ。
有馬と瞬を先頭に、皆は坂を下り始めた。晴三郎と並んで歩く襟人が空になった水桶を振ると柄杓が乾いた音をたてる。日傘の下から彼らの足元を見ると少し伸びた影が揺れていた。正一郎は悲鳴を上げるを己の膝を呪いながらその後を追った。
不意に理紀が小走りに引き返して行く。気付いた聖名が慌ててその後を追うと案の定、爽が木陰に座り込んでいた。理紀は彼の腕を掴んで引き上げ、そのまま手を引いて足早に歩き出す。爽は覚束ない足取りで引き摺られるように坂を下って行った。
駅まで戻るバスは空いていた。
冷房が効いた車内の一番後ろの席に有馬と理紀、その隣に正一郎が座り、予約した中華料理店の話題で盛り上がっている。手前の二人掛けには襟人と晴三郎が並び、地元の花火大会についてあれこれ話し込んでいた。奥の二人掛けに飽きもせずスマホを弄る無口な瞬、その横で死んだように爽が眠っている。
通路を挟んだ一人掛けの和二郎がデジカメで写真のプレビューを見ていた。いつも遅くまで働いて深夜に帰宅する彼は、眼鏡の奥の目を細め眠たそうに瞬きを繰り返す。聖名は、人が無防備になる瞬間を撮るのが好きだと言う和二郎のPCには、パスワードロックがかかった闇アルバムが存在するという誠しやかな噂を聞いたことがあった。
「さわっち、着いたよ?」
瞬が席から立てず往生している。停留所についても爽が起きないのだ。見かねた理紀に後頭部を叩かれ、爽は動物のように低く呻いてノロノロと立ち上がり、降車口のステップを思い切り踏み外した。怒りながらも助け起こす理紀の様子をじっと見つめていた瞬に、和二郎が「どうした?」と声をかけると、「別に」とまた視線をスマホに落として一人で先を歩き出す。
そこから緩い坂を下り、大船駅から根岸線に乗った。車窓に流れる外の景色は朝よりも陰影が濃く、時折照り返しでチカチカと光る。今日の午後は更に気温が上がりこの夏の最高気温になると車内案内モニターが告げていた。