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真柴久吉公名護屋陣先手諸将繰出之図 三枚続
真柴久吉公名古屋御陣先手之諸大将朝鮮州江くり出シ之図。慶応元年(1865年)作。
真柴久吉(羽柴秀吉)が、名護屋城(肥前国松浦郡、現・佐賀県唐津市)で、朝鮮の役の先手衆を送る場面。名護屋城は1592年(文禄元年)から秀吉の死による渡海衆の撤退までの7年間、拠点となった。城下に全国の諸大名による130以上の陣屋が構築され、最盛期は全国から20万人を超える人々が集まった。関ケ原の戦い後に廃城となり、当地を治めた寺沢広高によって唐津城に移築されたと伝えられる(参考)。
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城壁に汚れ(記号?)あり
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ここからはその真意について述べる。実際に描かれたのは、同時期に江戸幕府が行った(第一次)長州征伐の時事とされる。京で禁門の変を起こした長州に対して、15万人の大軍が派遣された。久吉が将軍・家茂、名護屋城が大阪城を表し、天保山沖に多数の軍船が配され、対岸に淡路島、さらに画面中央の遠方に小さく「周防国」の文字が記されている。題名には「朝鮮州へ繰り出し」と全てにふりがなが振られているが、「鮮」の一字だけに仮名がなく、「ちょうしゅう(長州)へ」と読めるように巧妙に仕掛けられている。芳年は度々このような風刺画を描いた。
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