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山崎大合戦之図

慶応元年(1865)、一魁斎芳年の時代。
大判錦絵六枚続(出典)。本作は羽柴軍で右側の三枚続、明智軍は左側の三枚続で「山崎大戦之図」と題打たれている。

天正10(1582)年6月、明智光秀は本能寺の変の後、信長の残党追討や治安維持に当た坂本城に戻り、協力要請を送るなど機内の国衆の誘降に努めた。近江を制圧し信長の家臣や同盟者が即座に動けない状況を利用して、京以東の地盤固めを進めようとする。しかし、細川藤孝らは出家して拒絶し、その隙に中国方面軍の羽柴軍への対応が遅れたことで計画は狂い始めた。光秀は近江を平定後、淀城の修築や布陣を進めたが、羽柴軍との対峙までに準備が整わなかった。一方、秀吉は、信長の死を知る直ちに毛利氏との講和を成立させ、中国大返しを行う。中国攻めで予定されていた信長の後詰のために用意した道中の補給を用いて迅速に本拠播磨に戻り、摂津衆や信長の縁者も加わり軍勢は2万以上に膨れ上がった。最終的に、両軍は山崎の円明寺川(現・小泉川)を挟んで対陣した。(参考)。

山崎の戦いは6月12日に明智軍と羽柴軍が対陣し、翌13日に開戦した。光秀軍は狭い地形を利用し、秀吉軍を順次撃破しようと考えた。勝竜寺城を前線拠点とし、淀川と天王山にはさまれた隘路での迎撃を図ろうとしたが、兵力差と地形を活かした羽柴軍の機動力により次第に劣勢に追い込まれる。

高山右近
羽柴秀吉。奥に小西行長
関ケ原の西軍(江戸当時の賊軍)なので名前を変えて描かれた
右から順番に:
糟屋武則?
福島正則
長束正家
脇坂安治?
中村一氏?
木村重成??
片桐且元?
加藤清正
島左近
黒田官兵衛か
藤田行政(伝五郎)
斎藤利三(内蔵助)か

戦端が開かれたのは13日午後4時頃。斎藤利三らの先鋒隊が高山右近隊や中川清秀隊を猛攻し、一時は羽柴軍の中央部を押し返す勢いを見せた。しかし、羽柴軍の右翼部隊が密かに円明寺川を渡り、明智軍本隊の側面を突いて戦局が一変した。高山隊や中川隊も再び勢いを取り戻し、斎藤利三隊や伊勢貞興隊が総崩れとなった。明智軍は勝竜寺城への撤退を試みるが、短時間の戦闘で甚大な損害を受け、兵の離散も相次ぎ、軍勢はわずか700余りにまで減少していた。平城の勝竜寺城では防御が困難と判断し、居城の坂本城を目指す。光秀は百姓の落ち武者狩りに遭い、小栗栖の藪で命を落とした。

光秀の天下は、本能寺の変からわずか12日間で終焉を迎えた。山崎の戦いは、秀吉が信長の後継者として名実ともに地位を確立する契機となった戦いでもあった。

目に水色が入れられている
入ってないバージョンもあるようだ
高山右近は家康にルソン追放されたが、江戸期に本名を出してもよかったらしい
左と中で雲の色が繋がっておらず。
この点は他の摺りでも確認できた
モブの表情が面白い

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