猫は一体どこへ行く
湿気が体にまとわりつき、まるで体が薄い水の膜に覆われているかのように苦しかった。夏の雨。朝に降りはじめた雨は夜中になってもやまず、夏の夜は涼しいという思い込みは毎日儚く消え失せていっている。梅雨の季節だ。
最近このあたりで子猫が大量に生まれているらしい。白い子猫、グレーの子猫、茶色と黒のぶちが入った子猫。暑さが続く毎日のなかでも、周囲の家々に住む人が与えるエサと、雨や風を避けて快適に過ごせるよう作られた簡易的な小屋のおかげですくすくと育っている。エサをくれる人間を見かけるとぴょんぴょんと跳ねるようにして近付いてくるらしい。親猫はもう完全に人間に関して警戒心をといているようで、子猫を撫でていても自分は体がかゆいのか、毛繕いに必死だ。梅雨に降る雨がはねて汚れるからか、最近はさらに激しく体や顔をなめている。
野良猫に与えるエサや、ふとわいてくる愛情に近いような感情は、なんなのだろうか。善悪のどちらかしか選べないとしたら、どちらだろうか。たくさんの猫用のエサを買い込んで猫の溜まり場にきてエサをあげる人間は何を考えているのだろうか。飼いたいけれど飼えない、それとも純粋に自分とは関係のないところで猫をかわいがりたい気持ちを持っているだけなのだろうか。
あれだけ毎日かわいがりにくるのなら、野良ではなく家猫にしてやればいいのにと、大量の猫たちが住む通りを家の窓から眺めながら思う。しかし猫をかわいがりもせず、エサも与えず、他人に対して「飼えばいい」と思うわたしには、エサをあげにくる人の批判はできない。善でもなければ悪でもない状態が一番たちが悪い。
散歩コースの途中にある簡易的な猫小屋は、その周囲をなんの手入れもされていない木々で覆われており、その木の上には新品ではなさそうなブルーシートがかけられている。雨は避けられるし、うまく入り込めば日中、この中で寝ていても人間に見つからないだろう。とてもよい小屋に見える。そう見える。
数匹いたはずの子猫は、初めて見てから一週間ほど経った頃、一匹にまで減った。白い子猫といつも兄弟のように寄り添って行動していたグレーの子猫もいない。しかし親猫はいつ見かけても悠長に体をなめ続けている。親猫は子猫を探しただろうか。猫は涙を流しはしないけれど、夜中に驚くほど長時間、何かを訴えるように鳴いている時がある。数日間続いたそれを最初は猫同士の威嚇の鳴き声だと思っていたが、あれは子猫を探す鳴き声だったのだろうか。
白い子猫も平然としているように見える。でも確実にグレーの子猫はどこにもいない。不格好な小屋の中にも、周辺にも、車の下にも、近くの公園の花壇にも、どこにも。いちばん無関心だったはずのわたしが、いちばんグレーの子猫を探している。
そうして今日いちにち、雨が降り、強い風が吹き続けた。猫は一体どこへ行ったのだろうか。
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