「家族最後の日」植本一子
著書「かなわない」から約1年、植本さんが最近出版した「家族最後の日」を読んだ。「かなわない」はその文章量もすごかったため、だいぶ長い時間をかけて読んだ記憶があるが、「家族最後の日」は3日ほどで読み終えた。
「かなわない」から少しの時間が経ち、わたしの想像の中であんなに小さかった植本さんの子どもたちも、文章から感じられるくらいおおきく育ち、それぞれの強い個性がうかがえる。本当に同じ人が書いているのか?と思うほど穏やかで、落ち着いた家族の日常を綴る文章は、母として立ち上がった植本さんの頼もしい姿が思い浮かび、なんだかこちらも母のような気持ちになる。
「家族最後の日」は植本さんの旦那さんである石田さんに、癌が発覚したことが中心として描かれているが、本当のテーマはやはり本の名前にもなっている家族なのだ。
ここが「かなわない」から本当に変わった部分で、「家族最後の日」でも植本さんは自分の周りで起きたことや、それに対して感じたことを書いているのだが、不思議とそこには石田さんや子どもたち、そして仲の良い知人たちの姿もついてくる。個人としてではなく、家族というコミュニティに身を置く植本さんが見えるのが「家族最後の日」である。
そしてここでいう家族とは、石田さんと子どもたちと植本さん、という家族だけでなく、石田さんと石田さんの親父という家族、植本さんと植本さんの両親という家族も入っている。
ここでわたしは、誰もが結婚すれば家族を2つ持つことになるんだなということに気付いて、なんだかそれを両方ともうまくやっていくことは、わたしには難しいことなんだろうと感じてしまった。ここは植本さんと一緒である。
植本さんの文章を読んでいると、感情の表現というか、感情の出どころをしっかり見つめられているんだなあと感心することが多々あって、いくらでも文章を引用したい気持ちになる。
特に良いなと感じたのは、自分と母との関係性について改めて感じた文章。
こうして辛いことはどうしても母に話してしまいたくなる。というより、母に話すより仕方ない出来事なのだ。
けれど話してなんになるだろう。結局わたしは母に期待してしまっていたのだ。そして母もわたしに期待している。
本文から引っ張ってきていないので(ページが見当たらない)言いたいことがイマイチ伝わらないような気がするが、要するに植本さんは石田さんの病気が発覚する前に母と勝手に絶縁したものの、石田さんがあと少ししか生きられないかもしれないという中で、子育て、仕事、石田さんの看病など、全てが背中にのってくる。その辛さを誰かに打ち明けるとしたら母であるが、結局母に話したところで何もならない。期待していることなど返ってこない。
そんなところから始まり、何度も何度も母と対立してきた自分は、結局どこかで分かり合えるという期待を母にしてしまったのだ、ということに気付く。それは母も同じで「家族だから」といつまでも、いつまでも期待してしまう。でもそれももう終わり。
そのことに気付いたことで、植本さんと母という家族は終わり、そして石田さんと植本さんと子どもたち、という新たな家族が始まった。自分が長年所属してきた家族の終わりが、新たな家族の始まりとなったのである。
終わりの背中には、始まりがついている。とは誰かが言っていた言葉だが、本当にその通りだなと感じさせてくれる本でした。
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