京都生活最後の一日
下宿に帰るとアパートの前に引っ越しのトラックが止まっていた。もうそんな季節かと思い出す。京都の街を出てからもうすぐ一年になる。あの春ほど僕にとって象徴的な春というのはこれから先訪れるだろうか。出会いと別れの季節、あれほど胸が引きちぎられるような経験をしたのは初めてだったし、同時に認めたくないほど新生活に希望と期待を抱いていたのも本心だった。春の色は眩しい。その眩しさに耐えられず、京都を出るまでも出てからも、毎日のように泣いていた。あの時の感情の温度感まではもう霞がかかって思い出せないけど、SNSに残していた記録と言葉を辿り、京都生活最後の一日のことをまとめておきたいと思った。
「京都生活最後の日」が来ることは、京都で一人暮らしを始めた瞬間から確定していたことだ。ただ、暮らし始めた当初はここまでこの土地に愛着を持ち、引き裂かれるような感傷を抱えて京都駅の改札をくぐり、それでもさよならを告げて新しい土地へ向かわなくてはいけないというそんな重みのことなんて一ミリも想像していなかった。暮らし始めて最初の二年くらいは特に京都を散策するということもなく、大学近辺をたまに散歩するか高野川で本を読んだり酒を飲んだりして過ごすか、そのくらいのものだった。その暮らしが変り始めたのが大学2年生の秋頃、友人となんとなくママチャリで鞍馬の方まで走りに行ったときだった。そこから京都散策の回転が加速度的に動き出し、暇さえあれば放課後に京都の北山へチャリをこいで繰り出す日々へと変わっていった。
基本的に興味関心は広く浅くな方なので、京都の山奥の集落をある程度見たかなと思ったタイミングでその関心は徐々に山から街へと降りて行った。そもそも京都の山奥に集落が発達したのも、小浜から出町柳へと続く古くからの街道の通り道であり宿場町だからという背景もある。山奥に残る神社仏閣も、京都市街地の神社仏閣と何かしら縁やゆかりのあるものが多い。山のことを知ろうと思っていたら街へ降りてきていた、というのはその意味では自然な流れだったなと思うし、そのような山と街の歴史や風土が地続きになっていると気付けたことも僕の中での京都愛に拍車をかけていった。勿論京都以外の他の土地でも同様のことは言えるのだけど、京都のように発達した市街地から少し山の方へ向かうだけでこれだけ多くの(そして小さな)限界集落が残っている土地は珍しいと思った。
2月11日。卒論発表を終えた翌日の早朝、卒業旅行と称して大学生活最後の旅を始めた。期間は一か月。スタートは京都駅。この旅の起点は京都にしたいと思っていた。まずは和歌山からフェリーで四国に渡り10日間の旅、次いで未踏だった佐賀長崎で9日間、そして福岡からタイへ飛び立ちそのまま海外へ。夜行列車を何度も乗り継いでタイ、マレーシア、シンガポールと国境をまたいだ鉄道旅。8日間の海外旅を終えて再び福岡に帰着。そこから山陰線で日本海沿いの漁村集落を巡って29泊目の夜に福井県は小浜の旅館へとたどり着いた。旅費削減のため半分ほどはテント泊で過ごしたし、長崎では怒涛の階段巡りラッシュ、そして初めての海外一人旅、帰ってきてすぐの山陰漁村巡り。毎日毎日歩き倒した旅だったので、疲労感はずっと抜けないままだった。
一か月という期間の中でどのような旅をしようかと最初悩んだが、最終的に思い浮かんだのが「ただ自分がしたいことを詰め合わせる」旅だった。そのしたいことというのが、一つ目に僕の中で京都と同じくらい愛している土地である四国を旅すること。二つ目に九州でも未踏だった佐賀長崎へ足を踏み入れ、特に坂の街長崎で階段巡りを堪能すること。三つ目に海外一人旅をすること。そして最後の四つ目が、小浜から出町柳まで、鯖街道を歩いて京都の街へ帰ること。僕が本当にしたいことを繋ぎ合わせることでしか作り出せない旅路を歩みたかった。
どれもハードスケジュールではあったものの、大きな事故や旅程崩壊などに合うこともなく、順調に三つの願いは叶えることができた。そのようにして満身創痍の中、ラスト四つ目の「小浜から出町柳まで、鯖街道を歩いて京都の街へ帰る」旅が始まった。3月12日。京都を出てから30日目の朝を迎えた。鯖街道起点の道標を写真に撮り、歩き始めた。
少し話は逸れるが、ここでなぜ鯖街道を歩きたいと思ったかについても記しておきたい。元を辿ると初めて鞍馬までママチャリに行ったときのこと。それまでは叡山電車でしか行ったことがなかった場所にママチャリでも行けてしまうことに不思議な感覚を覚えた。あの場所は京都の街から遥か遠くにあって、ママチャリでなんて行けない山奥にあるもんだと思っていたから。でもひとたび散策を始めてみると、全くそんなことはなく、寧ろ鞍馬や貴船は京都の山間集落では手前に当たる場所で、もっと奥にはもっと小さな集落が点々と存在していることを知った。そしてその集落へ何度も通ううちに、鞍馬や貴船はちょっとしたサイクリング気分で出かけられる近所のような位置づけへと変わっていった。勿論あの場所の持つ独特の山深い雰囲気は変わらないのだが、僕の中で土地に対する距離感が明確に変わっていったのを感じた。このようなことを繰り返しているうちにある時、「ひたすらにこれを繰り返す事で遠くにある土地を自分の中でより近く近くしていって、自分の中での京都を小さな飴玉のように手元で転がせるような存在にして、最後に京都の中心でそれを飲み込みたい....」という、叶いようのない欲望が芽生えた。例えばデルタから鴨川の源流である志明院まで歩くと、賀茂大橋に立って鴨川を眺めた時にその源流までの道が(目に映らなくても)見ることが出来るし、街道の終点に立つと起点までの道のりが思い出せる。一条通りを端から端まで歩けば、起点に立った時全ての道のりを想像できる。遠かった場所が近くなっていく。この感覚を味わいたかった。そのために一条通から十条通まで全て端から端まで歩いたり、京都一周トレイルを1月1日の0時0分から20時間かけて75kmのコースを歩いたり、僕の中の訳の分からない欲望のためにひたすらに肉体を酷使してこの目に映る風景を記憶していった。北へ東へ西へ南へ、ありとあらゆる道を歩きたいと思った。話が逸れたが、このような思いがあり、京都の学生のメッカとも言える出町柳から小浜へ通じる鯖街道は一度通しで歩いてみたいと思っていた。それが卒業旅行四つ目の願いだった。
鯖街道と言ってもルートは無数にあるが、今回僕が選んだのは距離としては最短だが最も道の険しい針畑越ルート。このルートは、舗装路だけなら集落を散策するためにカブや自転車で何度か通ったことはあったが、未舗装の山道はかつて歩いたことがなく、雪もまだ積もっている場所があるため想定量の積雪量になってはいないかなど、少し不安だった。ただ歩き始めた以上は引き返せない。なんとかなるだろうの精神でとにもかくにも足を進めた。
小浜市街地から山の方へ入っていき最初の集落、下根来集落へ。引き続き九十九折の道を登ると上根来の集落が出てくる。ここは北近江と若狭の国境に接する遠敷谷最奥の集落。鯖街道針畑越えの拠点でもあった。
上根来を過ぎ、おにゅう峠に差し掛かると事前の情報通り今もそこそこの残雪が見られた。かなりかつかつのスケジュールで動いていたため、このような雪道で足を取られているとあっというまにタイムロスを食らう。峠を越えればしばらくは下り道になるため休憩を惜しんで登り続けた。
その後しばらく山道を歩き、小入谷へと出てきたときは見慣れた風景にほっとした。一番心配していた雪道は過ぎて、この日はもう舗装路を歩くだけだったので安心して登山靴を脱いだ。かなり雪がしみ込んできていて足がぶよぶよにふやけていた。日が暮れるまでに今日の目標地点までたどり着けるか怪しくなり、まずいなと思いながらペースを上げた。
日が暮れていく。街灯も少なく、元々暗い山道が苦手なので疲れに反比例して足取りが早まる。そんな時に見えた「京都市」の看板。ようやく京都へ戻ってきた。中間地点まであと少し。日は暮れてしまい、真っ暗な山道を息を切らしながらとにかく早足で進んだ。途中から小雨が降りだしたが気にしていられない。この旅でいろんなところで野宿したが、はやり怖いものは怖いなと感じた。
久多中の町の辺りにたどり着き何とかその日の目標地点へゴール。この日は結局44km歩いた。雨が降ってきたので仕方なくテントを張って寝袋にくるまった。次の日歩けるか不安なほど体中が痛く、肩は上にあげられないほどだった。約20kgのザックを背負い、最後の数時間は休みなく歩いたのがたたった。予報によると明日の朝まで大雨が続くらしい。出発は遅くなりそうだなと思いながら諦めて寝ることにした。30泊目の夜。へとへとだ。おやすみなさい。
3月13日。京都を出発してから31日目の朝。雨脚は弱まらず、出発予定時刻より少し遅れてのスタート。昨日は体中バキバキだったけど寝て起きたら痛みも治まっていた。人間の体、つくづく凄い。「京は遠ても十八里~」と口ずさみながら今日も峠道を越えていく。
雪のピークはおにゅう峠だと思っていたが八丁平の辺りが思っていた以上に雪が残っており、ずっと視界は霞み、手はかじかんで震えが止まらなかったのを覚えている。YAMAPで地図はダウンロードして行ったのだが雪のせいで道が見えにくく、何度も誤ったルートへ進んでは戻ってを繰り返してしまった。かなりのタイムロスを食らった。
八丁平を抜けて尾越集落へ出たあたりからはあっという間に感じた。尾越より南は僕の中の間隔では近所のようなものだった。天候も次第に晴れてきて心地が良かった。旧花脊峠から鞍馬街道の方へ下っていけるかなと思ったら通行止めになっており無駄足だったが、道中で山の向こうに京都の街が見え、「あとは下るだけだ!」と心の中で喜びの声が漏れた。
花脊峠より九十九折の道を下って鞍馬街道へ。目の前を叡山電車が通り過ぎて行った。ずっと鳥の鳴き声しか聞かなかった山奥から、車の音、電車の音、子供の声、様々な街の音が聞こえるようになっていく。非日常は瞬く間に日常へと解けていった。そのような速度で今日も日が沈む。
西賀茂の辺りで鴨川の河川敷へと降りた。懐かしい土の感触。鴨川の土を踏んでいる。嬉しくなった。疲れなど気にならない。なぜだか早足になっていく。気持ちよくて仕方なかった。ブルーハーツを聴きながら、今宵も鴨川の風を浴びて。
そのようにして鯖街道の終点、出町柳に到着。31日間の旅を終えて帰洛した。最後鴨川を歩いてる時の高揚感は間違いなく京都生活一番のもので、この瞬間のために今回の旅はあったのかなとさえ思った。やりたいことを繋ぎ合わせたハチャメチャな旅路だったが、大学生活の良い締めくくりになったと思う。京都で始まり京都で終わる一つの長大な旅が一本の糸として結びついたことが嬉しかった。始点に立てば終点までの景色が見える。その喜びは確かなものだったと思う。
このようにして卒業旅行は終幕した。
と同時に、京都生活最後の日はすぐそこへと迫っていた。
京都最後の日をどのようにして過ごそうか、一年以上前からぼんやりとは考え続けてはいた。やはり原点である北山をママチャリで巡るか、もう一度京都一周トレイルを一日で歩いて〆るか、或いは鴨川でゆっくり酒を飲み、いつものラーメン屋でラーメンを食べ、いつもの銭湯で一息ついて京都を出るか、等々。候補は幾らでもあった。決まり切らぬまま2月から3月にかけての一か月間の卒業旅行が終わってしまった。名古屋への引っ越し手続きが終わり、京都の下宿に置いてあった荷物も全て片付けて名古屋へ郵送した。名古屋でその荷物を受け取りある程度荷解きを済ませ、また京都へと戻った。空っぽになった部屋を見て京都生活のあらゆる記憶が思い出される。たまに友人が遊びに来てくれることはあったものの、それはほんの一握りの時間で、僕の中のほとんどの記憶はこの部屋でもがき苦しみ、酒を飲みながら永遠に泣いていたことばかりだった。
部屋に自作の京都地図を書いて貼ったり、読んだ本を本棚へ積み重ねていったり、骨董市で拾ってきたがらくたを飾ったり、結局のところ、僕は一人でいるのが苦しかったのだと思った。ずっと一人で泣いて酒におぼれて、救いがなくて、何かにしがみつかないとどうしようもない人間になってしまうと思って、それでたまたましがみついたのが京都という街だった。
京都散策から派生して全国へ旅をするようになったのも結局は逃避行に過ぎなくて、何か心を豊かにするためとか生産的な活動をするためとかではなくて、幸せになれなかったからそうするしかなかったというだけに過ぎなかった。この趣味とも呼べない逃避行も、手放せるなら手放してしまいたいと何度も思った。ただ普通に人と交流が出来て、ただ普通に人に愛されて、ただ普通に友人との楽しい記憶だけで埋め尽くしていたかった。京都を歩いているときも、自転車漕いでいるときも、旅先で海を眺めているときも、いつだって寂しくて孤独で耐えがたいほど苦しくて、血が出るまで唇を噛み続けるような、そんな自傷的で暴力的な悲しさの中でしかこの感情は弔えないからしがみついているしかなかった。この章に入るまでその殆どが僕の中での「好き」の感情に焦点を当てて話してきたため、ここで全てを覆すように自傷だの逃避行など孤独だの香ばしい言葉を並べたところで矛盾しているじゃないかの一言で一蹴されてしまって仕方ないものだとは思うが、ただ矛盾した感情も等しく感情なのでここに書くことにする。この僕の中の負の感情という側面で趣味を語るときと、正の感情という側面で趣味を語るときに生じる矛盾についてはいつかちゃんと整理をつけたいとは思っているが、今はまだ出来そうにない。
3月21日。部屋の退去にあたって不動産屋との立ち合いが始まった。いくつかの傷について指摘されて料金を計算されたのち鍵を返却し、3年間住んだ部屋とお別れした。これで見納めだなと思いながら扉を閉めて階段の方へ歩いていると比叡山の姿が目に入ってしまい、耐えきれずぼろぼろと泣いてしまった。最後の日は雨だった。
初めて部屋の内見に来た日、ベランダから叡山電車が見えることに感動してここに住みたいと思った。元々森見登美彦作品が好きだったのもあり叡電への馴染みや愛着は人よりはあった方だと思う。だけどどんな物語よりも鮮明に展開される、四季折々の美しいベランダからの景色。当たり前のように叡山電車が通り過ぎていく暮らし。徹夜明けに始発電車の音を聞いて朝が来たことを知る暮らし。そしてその背景には青々とした大文字山と比叡山がある暮らし。住んでいたころは当たり前だった暮らしが今日この瞬間から過去のものとなり、もう明日に同じような暮らしをすることはないのだと想像すると息が荒くなるようで、大好きだったものが自分の手から離れる苦しさに涙が止まらなかった。
ここで一つの日常が終わってしまったのを感じる。しかしここからしばらくの間は近くに住む弟の家で過ごすことで残り少ない京都生活を楽しむことにした。時間は止まってなどくれない。残り約二週間。
とは言え二週間のうち大半はアルバイトに時間を費やした。朝6時前に起きて自転車で祇園の旅館まで出勤、11時過ぎに退勤、そしてまた17時過ぎに出勤して夜は22時過ぎまで。一日のほとんどがバイトの時間ではあったが、午前中と午後の出勤の合間を縫って京都散策をしていた。行き帰りの自転車で今まで通ったことがない道や好きだった道を遠回りして巡りつつ写真を撮り、あと少しだから、あと少しだからと毎日疲労でいっぱいになるまで散策とバイトを繰り返していた。今これを書いていてようやくその時のしんどさを思い出したが、とても今の体力じゃもたなかったなと思う。疲れのせいか途中で熱が出たりしたが、コロナではないことを確かめた上で「なら問題なし」と、変わらず散策を続けた。とにかく何かに追われるように、常に焦っているような、そんな日々だった。本当はもっとゆっくり落ち着いてこの町を巡れたら、なんてことも脳を過ったが、思い返せば今までの僕も常に何かに追われるようにがむしゃらに歩き続けていたなと我に返り、「趣」を求めるような時間の使い方は自分ではないと悟った。好きな景色がこの目に映ればよい。脳に刻まれればよい。その道もあの道もこの道も、全て歩きたいから歩いているのだという、ただそれだけのことだった。
アルバイトで旅館で仕事させてもらうようになってから、一乗寺から祇園まで鴨川を自転車漕いで通勤するのが日課になっていた。夜の鴨川はいつも自由な風が吹いていて、特に冬場は人も少なく風は気持ちよく、そんな鴨川を遡上していると自然とバイトの疲れも吹き飛んだ。夜の鴨川を駆け抜けるのが日課になったのはバイトを始めてからのことだった。それ以来、バイトがなくても何かと鴨川は歩いて帰る習慣がついた。18切符旅で終電で京都駅に帰り、24時に京都タワーの明かりが消えるのを見送ってから祇園四条まで碁盤の目の町並みをあみだくじのように縦横無尽にふらふらと歩く。四条からは河川敷に降りて鴨川デルタまで酒を飲みながらのんびりと。そんな日常は尊かったなと思う。疲れる度に草むらに倒れこみ、緑の匂いを嗅ぎながら空を見上げる。この土地に抱きしめられている感覚を覚えずにはいられなかった。そして3月31日。最後のバイトが終わった。本当にみんな優しい人たちばかりで、職場にはつくづく恵まれたなと思った。長く旅館で着ていた作務衣と履物を自転車のカゴに放り込み、いつものように鴨川の河川敷に出た。三条から出町柳まで鴨川を上る日常もこれで終わりかと思うと寂しさがこみあげてきた。着実に日常が僕の周りから離れていくのを感じる。
4月1日。この日は京都の北山の山間集落をカブで巡った。好きな集落全てを、とはいかないので、最近あまり行けていかなかった集落を中心に廻った。走る道全てに思い出がある。歩いた記憶、ママチャリで走った記憶、カブで風を切った記憶、野宿した記憶、集落の人と話した記憶、急に暗くなってきて寂しくなった記憶。道という道に記憶があり、思い出があり、そんな道を走るのはとてもつらかった。時速三十キロでコポコポと音を立ててゆっくりとゆっくりと山道を進んだ。
京都の山道をカブで巡っているときは不思議と焦りから解放された。おそらく、特定の集落や風景への思い入れが強いというよりは、ただ北山の自然を浴びているという事実だけで幸せになれたからだと思う。どの道へ行っても、どの集落へ行っても、そこにはのどかな自然があり川があり水路があり暮らしがある。焦る必要はなかった。
この日巡った集落は順に、中川、氷室町、大森西町、大森東町、真弓、杉坂、雲ケ畑。大森や真弓は京都一周トレイルでも通ったことがあり思い入れの強い場所でもある。中川集落は有名な木造倉庫の方しかほとんど見たことがなかったけど、山肌に広がる集落の方も殆ど網羅的に歩いて今まで知らなかった景色に多く出会えた。歩いた気でいても歩けていないものだと何度来ても思わされる、京都北山。細い道をカブにまたがり、小回りきかせながら巡り廻った。いつまでもこの風景を浴びていたいと思った。
このようにして4月1日が終わった。僕の中の京都散策は北山に始まった。思い出の集落全てを一日で巡れたわけではないが、それでも満たされた気持ちになれた。山の匂い、土の匂い、木の匂い、肌に当たる風、その全てが自分を包み込んでくれているような気がする。苦しくなっては山へ向かい、泣きながら山を登ったり田舎道を歩いたり、いい思い出なんて何一つとして無かった。常に苦しかったし常に救われたいと願っていたし、この匂いや風の一部となって、その全てから解放されて、風景になれたらと思っていた。風景に救いを求めて京都盆地を飛び出し山へ山へと向かった日々を思い出す。
4月2日。遂に京都生活最後の日が来た。朝六時過ぎに家を出る。迷いはなかった。前日寝る前に地図を見てルートをざっくりと考えていた。それを時間が許す限り歩き倒そうと思った。未練があろうと、悔いがあろうと、見れなかった景色があろうと、その感情すら全て受け入れられるくらいがむしゃらに歩き倒そうと決めていた。この二週間絶え間なく散策してきて、毎日何かに急かされるようにひたすらに京都を歩いてきて、その追われるような日々から今日で解放されるんだなと、そんな思いも過ったりした。そこまでやる必要のない最後の別れ、きっとこれでよかったんだと思えた。本当の最後を楽しもうと足取り軽やかに比叡山に別れを告げた。
まずは地下鉄に乗り京都駅へ向かった。僕はいつも地下鉄で京都駅へ向かう時は五条駅で降りて地上へ上がり、東本願寺を拝みながら京都タワーの方へ烏丸通を下って歩く。逆に旅先から京都駅へ帰ってきたときに東本願寺の前を通ると、烏丸通りまで木の匂いが薄っすら流れてくることがある。この匂いを嗅ぐと京都に帰ってきたなと感じる。京都の街に神社仏閣は無数にあるが、そんな古い木造建築の匂いが好きで、つい寄り道しては匂いを嗅いでしまう。
大きな荷物を京都駅のコインロッカーに預け、身軽な状態で京都散策を開始した。京都駅前バスターミナルでバス地下鉄一日乗車券を購入。どこへでも行ける切符だ。
205番に乗り込み七条通りを西へ。京都市中央卸売市場の近くで降車した。この市場にある早朝からやってる食堂か喫茶で朝ごはんを食べようと思っていたが、どこも閉まっていた。よくよく考えると日曜日なので市場はお休み…とは言え喫茶店は開いていると思っていたのになぜか休業だった。幸先悪いなと思いながらも、この近くの街の雰囲気は好きなのでうろうろと徘徊。次の場所へ向かうことにした。
シェアサイクリングサービス「pippa」に乗り島原方面へ向かっている最中、偶然にも素敵なタイル張りのアパートメントが目に入りすぐさま折り返した。第一暁荘と第二暁荘に分かれており、どちらも薄い黄色を基調とした古いながらも可愛らしい色合いのアパートだった。何と言っても要所要所に使われているタイルが良い。こんなに良い物件に今まで気づかなかったのか。よだれを垂らしながら撮影させてもらった。
続いては島原へ。京都の花街と言うと先斗町や宮川町、上七軒などの方が観光地としての印象が強く人で賑わっているが、このエリアはアクセスが悪いこともあってか観光客が少ない印象だ。ただ近くに安めの民宿やお宿があるためか、その帰りのような外国人がこの辺りを散歩している光景はちらほら見かける。僕も昔、この近くの宿に泊まったことがあり島原の方へ散歩に来たことがある。京都に住んでいながら京町屋で寝たことはないなと思い、わざわざ京町屋のお宿を取って宿泊した時のことだ。夜の島原、特に角屋の格子状の黒い影がとても美しかったのを覚えている。
島原門をくぐり五条通りを渡って北へ上がる。まるき製パン所に寄って朝食のリベンジをしようと思っていたらまさかの長蛇の列。いつも行くときは平日の夕方とかだから地元の人しかいなかったけど、日曜日の朝はかなり混んでいると知った。諦め。ここのカレー味のソーセージパンがとても美味しいんですよね。
結局朝食はコンビニで適当にすまし、パンを頬張りながら時間を惜しんで散策を続けた。フォロワーさんから教えてもらったタイルも見に行くことが出来た。
続いては壬生エリアへ。壬生と言えば壬生寺が有名だが、壬生寺を抜けて少し西へ進んだあたりの商店が並ぶ街並みもかなり好き。激渋食堂として有名な蕎麦屋「丸福」へは結局行けてないな。シャッターが降りた店も多いが、未だ現役でテントを張る商店や八百屋さんなど小規模ながらも生活感が感じられるエリアだ。
さらに西へ進むと西新道錦会商店街へ辿り着く。折り畳み式のテント屋根が京都の細い道を影で覆う。このようなアーケードの形は他では見ない珍しいものだと思う。写真右手前のむら瀬さんではコロッケを買って食べたこともある。美味しかった。
壬生エリアを出てからは嵐電に乗り込み西へ。ずっと見たかった有栖川と西高瀬川の立体交差を見に行った。近くの水路を含めとても味わい深い景観だった。
立体交差を見たのち、車折神社まで歩いて境内を散歩。再び鳥居の目の前を走る嵐電に飛び乗った。さらに西へと進む。
嵐電の終点、嵐山にて下車した。桜シーズンど真ん中の嵐山。流石に人が多い。渡月橋を渡り、お目当ての場所へと歩みを進める。
渡月橋を渡り右折。桂川の上流へと向かうにつれて観光客は減っていく。人の少ない方、少ない方へ、静かな方、静かな方へ。目指すのは奥嵐山。
歩道を20分ほど歩いた先にある階段をさらに上ること10分。大悲閣千光寺に到着。ここのお寺は京都でも特に好きなので最後にもう一度寄りたかった。
ここまで来る観光客は殆どいないので観光シーズンでも落ち着いて見ることが出来る。遠くに見えるのは比叡山。良い眺めだ。
嵐山を離れ、龍安寺駅まで再び嵐電に揺られた。途中の桜並木が綺麗だった。嵐電の桜並木は有名だけど見たのは初めてな気がする。
龍安寺駅降りてすぐの龍安寺参道商店街。カラフルな三角旗が衣笠山の方へと続く風景が好きだ。この商店街の途中にあるあいおい食堂で昼食を食べた。ここの気の良い店主さんが印象的でまた来たいなと思っていた。カレーライスを注文。美味しかった。
妙心寺の境内に入る。空が広いっていいなぁって、妙心寺や建仁寺など広いお寺に入るたびに思う。周りに高いビルもないから開放的な境内を歩くことが出来る。そしてお目当ては妙心寺退蔵院のしだれ桜。初めて見頃の時期に来れた。巨大な桜の傘に覆われているようで見惚れてしまった。
妙心寺を後にし、妙心寺道を歩いて西大路通りへ出た。205系統に乗り込み北へと進む。次のお目当ては、京都で一番好きなお寺。正伝寺へ。
こんなに綺麗なのに誰もいないこのお寺は僕の救いだった。苦しくなる度自転車漕いでこのお寺に駆け込み、日が暮れるまで比叡山を見ていたことを思い出す。この日は何度か精神的にぐらっと来る場面こそあったものの泣きはしなかったんだけど、正伝寺のこの景色を見た瞬間ぼろぼろと泣いてしまった。マスクを持って行ってよかった。マスクがぐちゃぐちゃになるまで泣いてしまった。桜吹雪越しの比叡山が見れて幸せだった。本当に何度もお世話になりました。ありがとう正伝寺。
正伝寺に感謝を告げ、再びpippaにまたがり西賀茂を下って賀茂川に出た。御薗橋を渡り観光客で溢れかえる上賀茂神社をよそ目に先へと進む。今日は柔らかい日差しだ。次のお寺へ向かおう。
比叡山を借景とした庭園は正伝寺のほかにもう一つある。それがここ、圓通寺。生垣のせいか木のせいか、遠近感がおかしくなる。ずっと眺めていると比叡山が波のように見えてくる。大海原が向こうに広がっていて、波を立たせているように見える。こんなに小さな空間から眺めているのに、それほどに雄大。
比叡山を借景としたお寺を二つ見納めしたところで、最後はその比叡山の麓、僕が住んだ街へ。行きたいお寺の閉門時間が近づき、自転車ペダルの回転を上げる。汗だくだった。ただ同時に、僕は旅の情緒より肉体の疲労が欲しい人間であることを思い出す。歩く悦び、走る悦びは肉体の疲労にこそある。苦しさを忘れるほどがむしゃらに歩きたい。
地下鉄に乗り国際会館から松ヶ崎へ。四年間通ったキャンパスを通り抜け、再び自転車にまたがり、息を切らしながら東山の斜面を駆け上る。修学院へと帰ってきた。矢印を辿り、あのお寺へ。
家から山の方へ少し登るとお寺が幾つかある。有名どころだと詩仙堂、曼殊院、圓光寺とか。どのお寺も何回もお参りしたけど中でも特に再訪したかった曼殊院へもう一度参拝。閉門ぎりぎり、滑り込みセーフで到着した。僕が最後の一人でとても静かに拝観できた。そして裏のお目当てだった「菌塚」もようやく見ることが出来た。そっと手を合わしてこの場所を後にした。
曼殊院を参拝出来てよかった。それでは最後の目的地へ。なるべく好きな道を通って。遠回りをしながら。ゆっくりと。
小さな森を抜けて鷺森神社の境内へ。いつものように坂を下って鳥居をくぐる。桜の花が散っていた。
いつもならここの商店の隣を下ってそのまま帰るんだけど、今日はあと一つだけ寄り道をしようと思う。
狸谷山不動院へと続く激坂を上る。不動院の閉門時間は過ぎているけど、その少し手前にどうしても見たい景色があった。駐車場奥の桜の木。夕暮れの空も相まって本当に綺麗だった…
一乗寺、修学院エリアで見たかった景色を見ることが出来た。さぁ、今度こそ坂を下って帰ろう。
詩仙堂近くのここの坂道と放浪看板、そして西へ沈んでいく夕陽とそれに照らされた京都盆地を眺めるのが好きだった。東山で夕暮れ時に徘徊すると方角の関係上夕陽がとてもきれいに見える。ただ逆光になるので上手く写真は撮れない。だからきれいに残ってる写真は少なく、記憶の中の一乗寺はいつも逆光でかすんでいるなと思う。今日も代わりに肉眼レフに収めて。。
家にいると頭がはち切れそうになってとりあえず近所の山の方へ向かう。歩いてるうちに少しづつ気分が乗ってきて上へ上へと上がっていって、気がついた頃には汗をかき腹が減っている。あぁもうラーメンでも食いに行くかと坂を下って街へ戻る。そんな日常だった。本当に良い街でした。ありがとう一乗寺。最後に見た燃えるような夕焼けの空が忘れられない。
ようやく一乗寺の街へ降りてきた。
夕暮れの空が余りにも情緒を揺さぶってくる。
そして腹を空かせてラーメン屋へ。最後の晩餐はここと決めていた。言わずと知れた一乗寺の名店、天々有。休日には行列のできる有名店だけど夕方の時間はすいている。店の方の雰囲気も込みで好きなお店。本当に何度通ったか分からない。いつもの(中ラーメンとライスの小ネギ多め)を食べて店を出た。美味しかったです。
叡電に乗って一乗寺の街を離れる。この街に住めてよかったし、存在してくれてありがとうと言いたい。また京都に住むことがあるとするなら、もう一度この街に住みたいと思う。これで本当に日常が終わるのだと思いながらノスタルジック731に乗り込んだ。叡電に揺られること数分、終点の出町柳に着いた。叡山電車で一乗寺を離れたことで日常から切り離されていく感覚をひしひしと感じた。切れていく、切れていく、と思いながら進むしかなかった。
朝から晩まで休みなく京都盆地を転がり回っていたので疲労が凄い。東山湯で汗を流してさっぱりした。ここも何度もお世話になった銭湯。いい湯でした。
ほてった体で鴨川デルタに出た。息付く暇もなく、最終列車の時間が近づく。のんびりとはしていられない。のんびりしていたって仕方がない。僕には歩くしかない。さようなら鴨川デルタ。
デルタに別れを告げて京都駅の方へと体を向ける。同時にイヤホンからはブルーハーツが流れ出す。さあ歩こうか。鴨川を下ル下ル下ル...
後ろを振り返るといつもの帰り道の光景を見てしまうことになり感情が崩壊するのが目に見えてるのでアウアウ呻きながら前を向いて歩いた。放出しきれない感情が爆発物のように脳内を暴れまわる。アルコールなんかじゃとてもなだめられない精神を、このぐちゃぐちゃの感情を、最後まで早足で歩くことしかできなかったどうしようもない自分への後悔を、その全てを全身で受け止めて歩いた。今宵も鴨川の風は心地良い。
地図なんて見る必要もなく、ただくるくると回りながら京都の街を下っていく。
少しずつ大きくなっていく京都タワーの輪郭に、僕の過ごした京都での四年間を遠近法的に重ね合わせながら、そのようにして
苦しかったから、寂しかったから、満たされなかったから、愛されなかったから、それでも楽しかったから
京都タワーに最後の別れを告げた。身も心も引きちぎれる思いで京都駅の改札をくぐり新幹線に乗り込んだ。列車が動き出す。暗くて外はよく見えない。ただ京都の街が体から離れていくのだけは目を閉じても分かった。約30分の移動。名古屋駅に降り立った。その瞬間全部が終わったんだと実感した。清々しい気持ちだった。名古屋駅の改札をくぐる。京都での日常に幕が下りた瞬間だった。