ロシア旅行の思い出話【4】
ナンシーとの出会い 前編
エレーナ先生にメール。本当は飛び込み訪問をして、先生を驚かせてやろうと思っていた。だが、冷静に考えて、先生がロシアに帰国しているのかは不明。結局、返信を待つことに。住所を手元に控えているだけに残念。
さて、本日はホテル内のレストランで食事をしてみようと思う。ここに宿泊してまだ一度も利用したことがない。朝食は大抵ストリートフードで間に合わせていた。
レストランには客の姿がなかった。料理人を含め、従業員さんたちも退屈しているらしく、ヘラヘラ雑談している様子が窓越しに見えた。だが、僕がドアを勢いよく押し開けてみると、彼らの表情は一転して鋭い顔つきに。やはり笑顔は見せないのだ。おそロシア。僕はボルシチ(борщ)をオーダーした。
ボルシチを食べていると、清楚な女性がレストランにやってきた。そして、ろくな挨拶もせずに、僕の対面に腰を下ろした。人前で黙々と食事をするのは恥ずかしいもの。日本人ならば理解できるであろうこの気持ち。
「それ美味しそうね、なんていう料理? 私も食べようかな」
女性は独り言のようにつぶやくと、僕と同じメニューをオーダーした。英語とロシア語を器用に使いこなせるようだ。僕はボルシチを彼女に説明してあげた。すると、彼女は「ありがとう」とだけ言って、軽く頷いた。何も会話せずにしているのもアレだから、何か話題を振ってみることに。
僕は彼女に旅の経緯を説明した。自分が大学生であり、ドフトエスキーの世界に憧れていることも付加しておいた。自己紹介も兼ねての僕なりのあいさつ。彼女は生意気な態度を見せる割には、人の話に耳を傾けてくれるタイプのよう。彼女の名はナンシーと言うそうだ。
「私はアメリカ人。でもママがロシア人よ。私もアメリカで大学生してるんだけど、今はエカテリンブルクに・・・ちょっとね、海外旅行中。あっ、私たちホテルも一緒よね?」
当然だろう。部外者がこのレストランに来るはずもない。それにしても、極めて流暢な英語はアメリカ人だからか・・・納得がいく。きっと生粋のバイリンガルなんだろう。間もなくして、ナンシーのボルシチが運ばれてきた。実は、それほど美味しくはない。これは冷凍スープ。しかし、ロシア人を片親に持つ彼女が、なぜにボルシチが分からないのだろう?
彼女とは、意気投合とまではいかないが、気が合うようなので、食事の後に一緒に外出することになった。家族や友人宛のお土産もついでに購入しておいた。1人では入りづらいお店でも、ナンシーと一緒だと、堂々とショッピングできる。彼女も両手いっぱいに買い物をしたようである。
夕方に差し掛かる頃、ロシアの古い建物を見て回った。先日にあの老人が死んでいた公園からそう遠くはない場所である。建物は、ソビエト時代より引き継いだ遺産であろうか。老朽化したレンガの外壁は、今にも剥がれ落ちそうだ。さらには、奇妙な形状にセパレートされた窓枠。これも面白い。また、広告らしい壁の落書きにはドラマを感じる。
暗い時間帯に街を観光するのは、今回が初めて。これまで関心すら引かなかった建物が、雅やかな芸術作品のように姿を変える。じっくりと観察してみる。目が暗闇に慣れてくると、建物の窓の奥から何やら灯りが見えてきた。まさかここに人が住んでいるのだろうか? ずっと廃墟だと思っていたのだが・・・。
「民家よ。これがロシア人の家なの」
これまでずっと静かだったナンシーが口を開いた。そして、続けた。
「ロシア人はね、こんな風なマンションで生活しているの。建物はずっと昔に建てられたんじゃないのかな? ほら、元々は共産主義だったからさ、人は土地が持てないの。だから今の時代になっても、国が管理する物件で生活するしかないのよ」
なるほど。確かに街には民家が見当たらない。この街の物寂しい雰囲気にも大きく貢献していそうだ。案外、ナンシーはロシアの事情に詳しい。でも当然か。
「ワンセント? 私のママもね、こんな風なボロボロのマンションで育ったのよ。ママがまだ若い頃のロシアでは、貧乏で、臭いジャガイモを毎日食べてたんだって。仕事は道路の穴掘りよ。そんな生活に耐えかねて、ママはアメリカに渡ったみたい。そう言ってたわ」
ロシア文学より学んだロシアの姿。だが、ロシアを知らない日本人の僕には、文化的で新鮮に響いてくる。ナンシーがどう感じているかは理解し得ないが。共産主義時代のロシアでは、複数の家族が、マンション一室にて共同生活を送るケースもあったそうな。
そのまま僕たちは当てもなく歩き続けた。話をするのがとても楽しいので、互いに出口を探ろうとはしなかったのかも知れない。ナンシーは言う。ロシア人は、アメリカを表面上は批判するものの、内心は強い憧れや嫉妬心で満たされていると。僕は静かに彼女の話を聞いていた。
「これからどうする? よかったら私の部屋に遊びに来ない?」とナンシー。僕は「そうだね。寒くなってきたから」と返事をした。あたりはもう真っ暗になっていた。