ロシア旅行の思い出話【6】
深夜の外出
ある日の夜、ナンシーに社交クラブに一緒に行ってみないかと誘われた。何度も強制ではないと念を押されたが、興味本位で彼女に同行することに。
外は小雨が降っていた。僕はホテルの入り口で彼女を待った。すると、ナンシーは1枚のビラを片手にやってきた。
社交クラブはロシアの伝統だそうだ。人々が同じ空間に集まって、世間話や意見交換をするらしい。通常は有料会員制だが、ビラには「非制限」と書いてあるとのこと。ナンシーはじっくりと記事を見つめて、「違法の可能性もあるわ。ヤバくなったら、一緒に逃げるわよ」と笑顔を見せた。
僕はロシア語を勉強してまだ2年目だった。当時の僕の実力では、簡単な記事を読むのも一苦労。ナンシーも僕の前ではロシア語を話さなかった。能力に乏しいと彼女に判断されていたのだと思う。
クラブは街外れにあるらしい。僕たちは傘も持たずに歩いた。ロシアの夜を本格的に歩くのは初めてだったので、半端じゃないほど緊張した。夜道には何者が潜んでいるか分からないし、それに死体はもう勘弁だ。
だが、そんなときに限ってコトは起こるもの。ずっと先の方から、何やら騒がしい集団がこちらへ向かって歩いてくるのが見えた。
「ワンセント、下を向いて! 黙って私についてきて。目を合わせちゃダメよ」
まさかの不良集団のお出ましだった。5〜6人にいたと思う。酒を飲みながらゴロついていた。僕たちは静かに彼らの横を素通りした。肩同士がすれ違う間際に、彼らの視線を感じたが、何もされなかったのは幸運だった。
とにかく強烈な体臭が漂っていた。何日も風呂に入っていないのだと思う。しばらく進んで後ろを振り返ると、男たちは唸り声を上げながら、電柱によじ登ろうとしていた。さらに、服を脱ぎ始めるも奴もいた。ダメだこりゃ。「ロシアの名物」と、ナンシーが僕に向かって奇妙なジェスチャーをした。
「ワンセントは『白痴』を読んだことがある? 今から行くところはさ、あんな風な病的な人たちが集まる場所かも知れないわ。さすがに暴力的な人はいないとは思うけど」
おいおい、今更何を言うつもり? それに「病的な」ってどう言う意味? 確かに、ドストエフスキーが好んで使用している表現なのは知っている。だが、ナンシーからはそれ以上の説明はなかった。
案の定、街外れまでは遠かった。でもその分だけ夜の風景を楽しむことができた。ロシアはモダンな建物と、伝統的で古い街並みが融合している。国そのものはこんなに美しいんだけどなぁ・・・。不運にも社会はぎこちない。もっと世の中に民主主義が浸透すれば、本当に素敵な国になるだろうなと思う。でもそれは、大分先の話になりそう。今はまだ、おそロシア。
「もうそろそろかな。きっとこの辺だと思う。緊張して足が震えるわ。ワンセント、引き返すなら今のうちよ。イキらないでよ、怖がりのくせに」
僕はナンシーの持っている地図を覗き込んだが、よく分からない。だが、場所はともかくとして、古い建物の間に狭い路地を見つけた。僕たちはとりあえず、その道を石畳みに沿って進んでみた。煌々とする街灯に照らされながら。
「看板が出ていないよね? 違法だから秘密にしてあるのよ。うーん、それだと・・・マンションの中にクラブがありそうよね?」
ナンシーの勘は正しかった。僕たちは異様な雰囲気の建屋を発見した。濡れた足跡が残っていた。その足跡を辿るようにして階段を進んでみた。すると、小さくて人目につきにくい入り口を発見した。いつの間にか、ツーンとする変な臭いが・・・。
「やっぱりヤバいとこみたいね。マリファナの臭いがするもん。どうする? 突撃してみない? 面白そうよ」とナンシー。
僕は怖くて我慢できなかったので、彼女の肩に掴まるようにして中に入った。ドアを開けると、薄暗い部屋の中で、数名のお客様さんが談笑していた。マリファナの臭いが吐きそうになるほどキツい。部屋の奥でラリっている輩もいた。僕は、ナンシーの陰に隠れて携帯で写真を撮った。これも旅の思い出になる。
唖然としてしまった。これはヤバい、ヤバすぎる!! すぐに僕たちに気づいた男性がこちらへ近づいてきた。途端、ナンシーは甲高いロシア語で彼を拒否すると、「帰ろっ、早く!!」と僕に叫んだ。僕たちは店を後にした。
僕はワケもわからなく逃げた。ナンシーにどんなところだったのか訊いてみたが、「知らないほうがいいわ」と言って教えてくれなかった。薬物の販売所だったのか? それでも僕は、終わってみれば案外楽しかった。スリルのある冒険。
帰り道はとても寒かった。相変わらず人の気配がしない。でも、冷静に考えてみれば、これが当たり前。こんな夜遅くに出歩いているのは、さっきの不良集団ぐらいだろう。
「ワンセント、今日は付き合ってくれてありがとう。それと、危険に巻き込んじゃったわね。あなたと一緒にいると元気になれるわ。私たち、なんだか、ずっと昔から一緒にいるみたいで・・・」
確かに。僕もそのような気がしていた。でも、僕はあなたのことを何も知らない。あなたは何も話してくれないでしょう? 心の中で思った。僕が足をとめると、急にナンシーが身体を寄せてきた。イセチホテルの前。僕は彼女にがっちりと抱きしめられた。
「これから予定あるの? あなたの部屋に行ってもいいよね? 寒い日だから、キスしてもらえたら嬉しいわ」とナンシー。
複雑な気持ちになった。ナンシーとの時間はこの上なく楽しい。だけど、僕は女性を求めてロシアに来たわけではない。