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真珠とダイヤモンド 桐野夏生 感想

奥付を見ると、単行本化にあたり大幅に加筆修正したとある。「大幅に」の基準が知りたいところだが、僕の想像では「プロローグ」「エピローグ」を加筆したのではないかと思う。読者によってはあざといと感じるかもしれないこの章の意味を考えることで、桐野氏の小説というものへの考え方を邪推してみたい。

本作は、近著『砂に埋もれる犬』『燕は戻ってこない』にも増して恐ろしく読みやすい小説である。この読みやすさはどこからくるのか。

三人称だが心象描写が多く、殊に主役においては主観的である。ところが、その心理描写があまりに精密なため、本当に彼ら彼女らが瞬時にこのように気持ちを言語化できているとは思えない。だから三人称を採用しているのだろうが、それにしてもこの小説中の登場人物は、設定以上に「賢く」感じられる。

この「賢さ」は、若い頃の経験で、その時にはよくわかっていなかったことが、何年も経ってからその意味にようやく気づく、という体験に似ている。あるいは、自分で自分のことがわからないとき、第三者が、それはこういうことなんだ、と叡智を授けるようなものか。作品中に占い師の中年女性が登場するが、彼女が諭す「人間のタイプと名前の意味」の蘊蓄もそのバリエーションだろう。

この物語の創造主である桐野氏は、生み出した登場人物が自立して動き出す様を見て、「そのあなたの気持ちを言葉にするとこういうことなんじゃない?」といちいち親身になって助言しているようである。その厳格さ、単純に好き嫌いの感情に寄らない理性的な分析が、読者にとって目を逸らすことができない緊迫感を生み出している。それがダレることなく持続していくから、読みやすいと感じるのだ。

何が物語を推進させるのか。思いもつかないストーリーなのか、愛すべきキャラクターなのか。そういう要素も欠かせないが、特に本作においては、登場人物の人生を回顧すること、今だから言えること、わかること、でも当時はどうすることもできなかったこと、そうした残酷さを「見物する」他人事としての好奇心なのではないだろうか。他人の不幸話は蜜の味というではないか。

そこでプロローグとエピローグである。桐野氏は、自身が生み出したキャラクターに「魂が宿る」と感じているのではないか。あの章は、物語から彼女らの魂を解放し救済するプロセスなのではないかと感じた。


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