夏物語 川上未映子 感想
主人公の夏子の一人語りで、彼女が小説家ということもあって、私小説的なエッセイのようにも読める。大きなテーマは生殖医療ではあるが、私はちょっと別の見かたをして楽しんだ。
夏子が書いた小説は、このように描写される。
文芸編集者の仙川は、その後、この小説はテーマではなく、文章の良さ、リズムに強い個性がある、と続ける。
この小説は別の登場人物にも読まれていく。
同業作家の遊佐からも絶賛され、その後、AIDを出自とする当事者の会で出会う逢沢も、大変気に入った様子だった。
それに先立ち、夏子は、出版物に掲載された逢沢のインタビュー記事で、自身の精子提供者を探しているという説明ののち、遺伝的な特徴として自らをこう語る文章を読む。
まるで迷子になった犬猫を探す張り紙のようだ。その逢沢から、夏子はこのような質問をされる。
逢沢が、自分の精子提供者と会いたいと思う気持ちと、この夏子の「会いたい」は同じなのか、違うのか。
「会いたい」という言葉は情緒的で、のちに善百合子からも、みんなそう言います、と看破されたりもする。この、言葉にすると陳腐になってしまう「会いたい」という感情がどのようなものなのか、それについて考える小説だと私は感じた。
そしてその、会うということは、死者に対してもこのように表現されている。
親しい人との距離感は、長きにわたって持続していく。夏子のこの思いは、喪失感というより、親近感の再確認のように感じる。容易には生じない親しみの感情は、しかし獲得してしまえば、ずっと失われることはないのだろう。
この感覚を、夏子は、これから生まれる我が子に対しても抱いたのかもしれない。新たに生じるというよりは、ずっとそこにあったものとして。だから生むことを決意したのか、と思う。
このような思考のプロセスは、夏子が作中で長い期間にわたって書いているという小説と、鏡写しになっているような気がした。仙川は、その執筆中の作品について、書けないのだったらそこにその小説の心臓がある、簡単に書けてしまう小説に何の意味があるのか、と夏子に言うが、この「小説」を「子ども」に置き換えたらどうだろう。
小説を生み出すということ、その物語を生きる登場人物に会うということ。この作品は、『乳と卵』の人物のその後を描いたものだが、川上氏も、夏子や巻子や緑子に会いたくなったのではないだろうか。そしてまたいつか、彼女らが登場する小説を書いてくれそうな気がする。