ご馳走はたまにでいい
どこからどこまでがご馳走なのかは人によって違うだろう。
幼少期に外食ばかりの環境で育っていたら、よっぽどゴージャスでないとご馳走だと思えないし、いわゆる家庭料理を食べて育っていたらファミレスでさえもご馳走になる。
ぼくはもちろん後者で、料理を生業としてきたにもかかわらず、そんなにたくさんのお店を食べ歩いたりはしていない。
最近になって外食は勉強になるし楽しいと思えるようになった。
でも何日か続けて外で食べると無性にふつうの白ごはんと味噌汁が恋しくなる。
自分が慣れ親しんだ食べものへの安堵感は簡単に言葉では説明できない。
緊張がほどけて、和食なら胃にもやさしくて、美味しさを超えた懐かしさを感じるような食事。
多くの人が家庭料理を食べて育つので、その存在や記憶を無碍にはできない。
一昔前だと主にお母さんの手作り料理が主流で他に選択肢もなかったけれど、今は出来合いの商品も多くなったので、それを食べて育った先に懐かしい味の記憶がどう作られていくのかがとても気になる。
コンビニの味で記憶が蘇るかもしれないし、冷凍食品の味で懐かしさを覚えてもおかしくはない。
反対にご馳走とはどの料理を指すのだろう。
飲食店も増えて、ご馳走のハードルが下がっているのではないか。
いずれにしてもご馳走は普段の食事がどのレベルかで決まる相対的なものだ。
人は慣れているものに安心する。
何事においてもたまにできるからこそテンションが上がる。
ご馳走も、休日も、買い物も、お出かけも、たまに、であることに意味がある。