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[読書記録]ヴィーゼル『夜』 - ホロコーストにいま目を向けること


はじめに:まだマックにもスタバにも行けない日々だけど

昨年末にこの記事を投稿した後も、ガザの虐殺は止まらないどころか悲惨を極めている。沈黙していた世界も少しずつ、ことの重大さに気づき始めているようだ。声を上げる人が身の回りにも増えてきた。

昨夜の新宿駅前では3000人もの人が集まって、コールしながらパレスチナの旗を振った。それが新聞記事などではちゃんと取り上げられていることに、一縷の希望の光を見始めている。

そんな中、目に入ってきたXのポストがこれ。渋谷でのパレスチナ虐殺反対デモに対して単身で激昂している女性の映像ですが、

これに対して、ユーザ名にパレスチナの旗🇵🇸を明示している日本人が「自分の快適な居場所に帰れ」という言葉付きで引用ポストをしていて、それなりにインサイトを伸ばしていた。
この女性がユダヤ人だとすると(そうだろうけど)、いくらなんでも言葉選びが残酷すぎて、やるせない気持ちになった。

だから今日は決心してこの記事を書く。

ユダヤ人が帰るべき「快適な居場所」?

イスラエルというのは、もともとヨーロッパ中でマイノリティだったユダヤ人が悲願する、ユダヤ人によるユダヤ人のためのユダヤ人の国家だ。パレスチナ人が元々住んでいた土地(聖地)に入植して、「自分たちがマジョリティである」「誰からも迫害されない」居場所を築きたいという考え方がシオニズムであると、私も不勉強ながら、理解している。

これまでの歴史を見れば、ユダヤ人がいかに「自分の快適な居場所」から遠い存在だったか。この大前提を忘れてパレスチナの旗を振るのは大きな罪だと思う。

もちろん虐殺は絶対に肯定しない。シオニズムを肯定する意図もない。が、イスラエルのユダヤ人が、手段を選ばずにパレスチナ人を一掃してまで絶対に死守しようとしているのが、彼らにとっての「快適な居場所」(ユダヤ人国家イスラエル)ではなかったか。

そこに帰れ、って。私は切実なユダヤ人に対して、日本人の立場でそれは絶対言えない。
多くの国が国民国家を標榜してきたこれまでの時代、ユダヤ人はどこの国でもはぐれものにされていた。その結果がこうである。
ユダヤ人に限らず、日本から出ていけと、ドイツから出ていけと、世界中の全ての国から言われた人は、一体どこに帰ってどこを居場所とするのかしらね

イスラエルをこうまでさせている過去を知りたくて、今、ホロコースト文学を読む

「ユダヤ人はナチスと同じことをしている!」「虐殺の被害者だったのになんで?」私も本当に不思議に思っていた。だから、ユダヤ人という民族がこれまでに本当に何をされてきたのかを、できるだけちゃんと知りたいと思った。

もちろん歴史の授業などで「ナチスにガス室で虐殺された」ことは知っていた。とんでもない量の人が残酷な方法で殺されたことは常識だ。ただそれは情報・知識であって彼らの体験の本質に触れているわけではなかった。

だから、ホロコーストやユダヤ人の歴史を扱った本を、今、積極的に読むようになった。(全然足りてないが)

私は読むことが好きだし幸いにも時間があるから、世界のことを知るために少しでも本を読む。本を読まない人にそれだけでマウントを取ることは、それはそれで特権を振りかざす感じがするのでしたくない。
そこはせっかくなので、印象深かった読書体験を自分のアウトプットがてら、ぜひシェアしていきたい。

ホロコーストの話は、本一冊読み切るのはとても辛いものが多い(それはそう)。私の文章だけでも、その辛さの片鱗に触れることにはなるが、ボリュームは明らかに本より少ないので、是非このくらいの文量に付き合える方は付き合ってもらいたい。

エリ・ヴィーゼル『夜・夜明け・昼』

きっかけは、ナチスドイツの歴史を専攻していた修士卒の友人から、「ヴィーゼルの夜を是非読んでほしい」と勧められたこと。プリーモ・レーヴィの『アウシュヴィッツは終わらない これが人間か』を読了した後のことだ。(これも今度紹介したい)

図書館にそのタイトルを求めると書架にはなく、書庫から引き上げてもらった。同じ本をネットで探すとすでに絶版になっていた。『夜』というタイトルで新版は出ているものの、『夜明け』『昼』という作品は収録されていない模様。

作者のエリ・ヴィーゼルはハンガリー出身のユダヤ人で、15歳で強制収容所に入れられて両親と妹を亡くしている。ノーベル平和賞受賞。彼に関する詳細はWikipediaなどに詳しいので適当に見てほしい。

収録されている3つの短編の各話はざっくりこんな感じ。

』では自身の経験をもとに、15歳の少年が村を追い立てられて収容所生活を終えるまでの一部始終を語る。

夜明け』では、(フィクションだし、名前を見ても別人格として描いているが)『夜』の主人公(≒作者)のような少年が、家族も故郷も失った後にイスラエルでテロ組織に入り、英国人捕虜を処刑するまでの葛藤を描く。

』は、これもほぼ作者自身と言えるような主人公が、アメリカで新聞記者をしているものの、強制収容所での経験を通して失った「生きたいと願う魂」のようなものを探し向き合う内容となっている。

ホロコースト文学なので能天気でないのは当たり前なのだが、明らかに悲惨なことが予想できる収容所体験を語った『夜』よりもむしろ、たった一人生き延びて(生き延びてしまい)、家族も故郷も神への愛や信頼も、心の支えを全て失った人間の、魂の成れの果てを描き出した『夜明け』『昼』の印象が、私の心に深い爪痕を残していった。

各話ずつ、印象に残ったエピソードを私の言葉で書き残していきたいが、3つの感想を1つに書くのはとても長くなるので、今回は『夜』に絞り、他の2編は次回以降に残したい。

注意①:引用文の箇所以外は私の言葉なので、敢えてカジュアルだったり、内容やニュアンスも含めて正確性を保証しないと強調しておく。興味があれば是非、実際に本を読んでほしい。

注意②:*を入れている箇所には、最後にちょっかいのコメントを入れる。

『夜』を語る ※いわゆる「ネタバレ」内容を含む

[連行前]現実離れした警告の言葉を一笑するほど平和だった暮らし

主人公エリーゼル(≒作者自身)が育ったハンガリーの片田舎シゲト(※現在はルーマニア)では、人々は戦争や暗い情勢に気を悩ませることもなく、日々ユダヤの神を敬虔に信仰しながら素朴な暮らしを営んでいた。

村のユダヤ人たちは「ドイツではヒトラーが世界中に何百万人といるユダヤ人を皆殺しにするって言ってるらしいぜ!そんなことできるわけないよな!昔ならともかくこの20世紀にもなって」みたいな感じで、あくまで楽観的だ。

ある日政権がファシズム政権にとって変わられ、そこから雲行きが怪しくなる(*1)。
ドイツ兵がハンガリー国内に入り込むようになり、ハンガリー警察がユダヤ人を連行していくようになった。

一番に連れていかれたのは外国から来たユダヤ人だった。ある日先に連れていかれたモシェと言う青年が、足を負傷して逃げ帰ってくる。
モシェの話によれば、連れていかれた人々は、まず苦労して大きな穴を掘らされた。その後穴の前に立たされ、次々射殺されて穴に落ちていった(掘っていたのは自分の墓穴だった)。赤ん坊は放り投げられて機関銃で撃たれた。
が、それを聞いた村人は「モシェはちょっといかれちゃったね。かわいそうに」と同情こそすれ、誰も相手にしなかった。(*2)

そうこうしているうちに、ユダヤ人は外出が禁止され、生活が変わり始め、やがてゲットーへ追い立てられる。
ゲットーからゲットーへ移動するときも、村人たちは「前線が近づいていて我々が邪魔だから移動させられているんだよ」「戦争が終わるまで集団労働をすることになるってよ」「ゲットーの中にはユダヤ人しかいないなんて、いじめられなくてちょっと快適かも(*3)」とか、あくまで楽観的な会話が溢れる。
そしてみんなで、わけもわからず家畜用の列車に鮨詰めにされ、着いたところがアウシュヴィッツだった(*4)。アウシュヴィッツと聞いても、ハンガリーの田舎者には何もピンと来なかったという。

[絶滅収容所到着]「ノコノコ来ないで首を吊っておくべきだったのに」

列車を降りた後、村人たちは男と女に分けて移動させられる。
主人公はこの時、父と一緒に男の列に加わるが、女の列に分かれていった母と妹とは、この一瞬が今生の別れとなった。「あとでね」とか、別れの言葉さえ交わず。

その後はもう、自分がすでに地獄の入り口を通ってしまったことを思い知らされる。目の前には煙突があり黒煙が上がっている。そのたもとの焼却炉に、トラックの荷台からユダヤ人の子供(の遺体)がザーッと投げ捨てられる光景を見る。

列に並んでいると、年齢を聞かれ、本当は自分は15歳・父は50歳だったが、親切な人の耳打ちがあり「18歳と40歳」と偽って答えた。右に左に分けられていく人々。この時、自分達と別方向に行った人たちはガス室送りになった。
年齢詐称のおかげか、まっすぐガス室に行くことを避けられたと思われた。労働力として当てにならない老人と子供は一直線に殺される運命だった(*5)。

囚人服を着せられ、入れ墨で腕に番号を掘られて、先に収容されているユダヤ人からは「ゲットーで首を吊っておくべきだったのに、なんでこんな地獄までノコノコ来てしまったんだ?」と言われる。そんなにも、世界の終わりまで来てしまっていた。

[父の死]尊厳もなく子供のように弱くなった父からの"解放"

毎日小さいパンと薄いスープだけで過酷な強制労働を耐え、衰弱して労働力と見做されなくなった人から"選別"されてガス室送りになる日々(*6)。
父もどんどん衰弱していき、今にも選別されるのではないかと気を揉みながら、食べ物を分け合ってどうにか二人で命を繋ぎ続ける。

収容所周辺の戦況が変わり、囚人たちは大雪の中薄着で大移動をさせられる。この大移動の過程でほとんどの囚人たちが飢えと寒さで死ぬが、主人公の父もその一人だった。

村では村人を引っ張る立場で、あれだけ威厳のあった父が、衰弱して死にそうになりながら子どもみたいに弱音を吐くようになる。(*7)

「エリエゼルや……エリエゼルや……。あの人たちに、私を殴らないように言っておくれ……。(中略)あの人たちは何故私を殴るのだろう。」
「坊や、なぜ私にそんなに意地悪くするのかね……。」

『夜・夜明け・昼』(エリ・ヴィーゼル 村上光彦:訳 みすず書房) 収録の『夜』より

弱り果ててうわ言のように繰り返す父をよそに、主人公は寝床に潜った。
翌日、定位置から動けなくなっていた父が、"片付けられて"いた。息があったかもしれないが焼却炉行きになったと思われた。
主人公は、そのことに涙も出ず、それをつらいと悔いながらも「とうとう自由になった」と感じるのだった(*8)。

[ホロコーストの終わり]生き残ったけど"屍体"

そして3ヶ月ほどして、主人公はついに収容所生活から解放される。病気をしていたがどうにか治り、ゲットー以来初めて鏡を見ると、その中から自分を見つめていたのは「ひとつの屍体」だったのだ。

私の目のなかのその屍体のまなざしは、そののち片時も私を離れることがない。

『夜・夜明け・昼』(エリ・ヴィーゼル 村上光彦:訳 みすず書房) 収録の『夜』より

この文章が最後の一文である(*9)。

注釈コメント

*1=政権交代によってびっくりするほど生活が変わってしまうことがあるらしいことは、国家の一員としてしか生きられない私たちには本当に恐ろしい。
この本で初めて、ハンガリーが第二次世界大戦では枢軸国側で参戦していたことを知った。

*2=声をあげた人に取り合わなかった末路として、こんなに恐ろしいことはない。と思うよ。本当に。声をあげた後に何もなければそれでよかった、というだけだ。危機感を持っていきたい。

*3=ユダヤ人以外の人がいると肩身の狭い思いをする、というユダヤ人の当たり前の感覚が表れている。どこにいてもマイノリティだから、村の暮らしさえ肩身の狭さはあったということがわかる。彼らの「居場所」とは?

*4=逃げなきゃと思った時にはもう大火事に囲まれていたような。どうすれば流されずに済むものだろうか。いざというときにできる限り早く逃げる判断をする力を身につけるには?

*5=ちなみに『昼』に登場するサラという女性は、本来殺される年齢である12歳だったが、ドイツ兵の"趣味"によって大人と見做され慰安婦になったことで命が助かった(肯定的には語れないが)

*6=ユダヤ人ヴァイオリニストが収容所のオケでもプロパガンダ音楽を演奏するが、「もうベートーヴェンは弾かせてもらえない」と嘆くシーンがある。彼も最後の雪の行進で死に、打ち捨てられているヴァイオリンの描写が胸に迫る。こういうところは非常に、情動を誘う文学的表現だなと思う。

*7=大きく見えた父親が、極限まで虐げられて小さくなっている様子を目にすることほど、こんなに惨めでやるせない、切ない経験があるだろうか?

*8=肉親の死に感動できないほどに肉体も精神も参り果てている。他にも、父親を邪険にする囚人の話がある。

*9=このような、既に自分は死人のようだという感覚が一生作者の精神を蝕むことになる。その様子が描写されているのが他の短編『夜明け』や『昼』であると言っていい

最後に:それでも綺麗事を言おう

冒頭引用したXポストの女性を、私が目の前にしたら。

跪いて「私はあなたを傷つけない I won't hurt you(英語のニュアンスあってんのかな)」と伝えて、そしてゆっくり近寄って抱きしめたい。

あなたが世界から銃口を向けられてガス室の前に道をつくられても、私はあなたと共にいるという意志を伝えたい。それがただ「愛」であり、個人と個人の心の世界さえあれば築けるものだと思うから。

本当に綺麗事だな。だけど綺麗事を笑って言える世界を私は守りたい。
ヒンメルなら、きっとそうする。



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