華男との朝と昼
刺青男に、頭をスーハーされたまま、時間が気になった。
やばい、そろそろバスに乗らないと遅刻する。
男の、真っ赤な薔薇の刺青のデカ胸に頭を押しつけられながらも、視線は置き時計を見た。
「あ、あ、し、じごどへ」
男の胸の圧迫感に何とか声を出すと、パッと男は力を緩めた。
「あ?ああ、悪りぃ。すまんかった。まだ、朝飯食ってなかったな。」
いや、そうじゃなくて。心の中でツッコミみながらも、言い返す暇もない。
私の中で、遅刻は絶対に嫌だった。
素早く、男から離れて、顔を洗う。朝ご飯は手取り早く、電気ケトルでお湯を沸かしつつ、一昨日買ったマーガリン入りのバターロール1個を口に放り込んだ。
お弁当は、休みに作り置きしていた、ちくわと大豆の炊き込みご飯のむすび。それから、パセリ入りの卵焼きを冷凍保存していたので、弁当箱用のタッパーに、ほいほい入れる。ついでに、昨晩食べた冷凍唐揚げの残りも入れた。
お湯が沸くと、インスタントコーヒーを入れたコップに注いで、少し香りを嗅いで飲む。開けたてではないけど、やっぱり苦味よりも、香ばしい香りで少し目を覚めた。
「おい、それだけで力出るんか?」
上半身ムキムキ刺青男のことは、完全にスルー。また洗面所に向かい、歯を磨き、寝癖直しスプレーを一拭きする。ホワイトフローラルのふんわりとした香りが、洗面所を包む。
着替えをして、長い髪をゴムで一つにまとめた後、リビングに戻った。
「あのー、俺の朝飯、、、。」
「キッチンに、まだ食べてない食パンと炊飯器にはご飯が少し残っているから勝手に食べて。冷蔵庫には、漬物と冷凍物あるけど、それでもいいから。もう。間に合うかな。」
慌ただしく準備して、鞄を肩にかけて、玄関に向かって、我に帰った。
「あ、それから、外出るんなら、ここのアパート、オートロック式だから。もう、戻れないから。」
リビングで何故かちょこんと正座して、「俺のエサは?」みたいな飼い犬の顔した男がじっと見ていた。
私はそれ以上何も言わず、ドアを開ける。
「いってらっしゃい。気を付けろよー。」
後ろから男の声に、『何が気を付けろよーだよ。』とイラつきながら、バタンとドアを閉めた。
何とかいつも乗る時間帯のバスに乗り、満員の中で揺られて40分。
私の職場である、耳鼻咽喉科のクリニックに着いた。
何度かの転職でようやくここに落ち着いた私は、先生から職場の人たちに挨拶しながら、すぐに休憩室のロッカーで、事務服に着替えて、開院の準備をする。
医療事務の仕事に就いてからは、数年は経つが、相変わらず、バタバタしているところはどこも同じ。
梅雨を迎えた今は、幸い花粉症ピークの春や秋に比べたら、忙しさはまだましだが、やはり子供から高齢者まで、朝からくる患者は多い。
受付、保険証確認、問診票の入力、会計、電話応対その他雑務は、周りの人と流動的に分担しているけど、忙しない。
13時過ぎまででやっと午前中の診察が終わって、昼休憩になる。
私は、鞄を持って、クリニックのすぐ隣にある広場まで歩いた。天気がいい日は、いつも決まって広場で食べるのが私の日課である。
朝はラジオ体操、昼は高齢者の人たちがゲートボールする以外、藤棚と錆びたベンチ、自販機があるだけ。
もう花の時期も終わった藤棚の下にあるベンチに座って、お弁当を出した。
しまった。水筒忘れた。いつもなら沸かした麦茶を水筒に入れるのだが、あの男のせいでばたついて、うっかりした。
もう、仕方ない。自販機で水買うか。
そう思っていた、瞬間、後ろから、肩をちょんちょんとされた。
は?振り返った、瞬間、黒いズボン。見上げたら、ボルドーのカッターシャツを着たあのデカ男が、「よっ」という顔で笑う。
「え、何で、、、。ここが、、、。」
やっぱり、こいつストーカーか。
「朝飯の礼言いたくって。あと、身体を拭いたことも。ん、これ、、、。」
差し出されたのは、500mlボトルのレモンティー。
「悪いけど、食パンとか、冷蔵庫のあるものとりあえず片っ端から食ったわ。すまん。でも、何とか助かっ、、、ぶえっくょん。」
またでかいくしゃみに私もビクッとする。
「ここに来るまで、コンビニで買った。キッチンに紅茶があったから好きなのかと思って。」
「どうして、私の職場まで分かったんですか?」
今すぐでも、スマホで警察呼ぼう。そう思ったが、男は、頭をボリボリかいて、
「いや、深夜に小便したくなって起きたら、放り投げてあった鞄から名札が落ちててさ、鞄に戻した。その時、チラッと目に入って。」
とあっけなく答える。
男はズズっと鼻を啜りながら
「そんじゃあ、大上(おおがみ)さん。寝かせてくれたのと朝飯、ありがとう。」
と、手を挙げて立ち去ろうとする。
私の苗字、きっと名札を見て、覚えたのだろう。
「ま、待って、名前は?」
男は振り返り「ん?」という顔していた。いやはや、私も何聞いているいんだろ?
「孝介(こうすけ)。平島孝介(ひらしまこうすけ)。」
まだ、そんなに近い距離にいるのに、男は下の名前から、大声で言った後、そんじゃあ、と笑い顔で手を挙げて行った。
何だったんだろう。あの人。
もらった紅茶のボトルを握りしめたまま、数分間、私は呆然とした。