ラインスドルフと「赤いウィーン」
※こちらの記事は、2024年11月に開催しました当会のイベント『ラインスドルフを聴く会』の解説として作成されたものです。
1. はじめに
エーリヒ・ラインスドルフ(1912 - 1993)は、オーストリア出身のアメリカを拠点に活躍した指揮者である。彼が誕生した1912年は、ヴァント、チェリビダッケ、ショルティ、ライトナー、マルケヴィチ、クルト・ザンデルリングなど、多くの巨匠が誕生した年でもある。商業録音の数から言えば、デッカに膨大な録音を残したショルティには及ばないものの、ラインスドルフはこの中でも著しく、RCAに主要オペラ・レパートリーを網羅的に録音したほか、監督を務めたボストン交響楽団との多岐に渡る録音や史上初のモーツァルトの交響曲全集なども残しており、これらの事蹟から巨匠と言える存在であったことは容易に窺える。しかし、放送録音などが今でも数多く発売されている同い年の指揮者たちと比べれば、彼の知名度・人気は今ひとつと言え、同時に振り返られる機会も限られたままと言える。また、彼の情報や音源へのアクセスが格段に容易になった今日においても、依然として状況に大きな変化が見られない。そこで、彼の音楽を聴く上での手がかりを提示するべく、彼のいくつかの著書から (“Erich Leinsdorf on Music”を中心に) 彼の音楽のルーツを探ろうと思う。今回は彼のルーツの一つでありながらも、深く言及されない亡命以前のヨーロッパでの活動、特に「赤いウィーン」体制下での活動に焦点を当てていく。
2. 経歴
今回は彼の亡命以前のウィーンでの活動を扱うことになるが、まずは亡命後の活躍も含めて、彼の生涯を概観¹'²しよう。1912年、ラインスドルフはウィーンのユダヤ人家庭に生まれた。その3年後に父を亡くし、ウィーンの叔母の家に暮らすことになる。1920年、7歳のときにピアノを始め、1923年から作曲家パウル・エメリッヒに、1929年から同じく作曲家パウル・アマデウス・ピスクに学んだ。1930年、音楽学を学ぶためウィーン大学に入学するも、演奏家としてのキャリアを本格化することを決意し、翌年の1931年から1933年までウィーン音楽大学で学ぶ。1933年、ウェーベルンが指揮する“Arbeiter-Symphoniekonzerte”『労働者交響楽演奏会』にリハーサルピアニストとして参加し、1934年から1936年にかけてザルツブルク音楽祭でトスカニーニおよびワルターのアシスタントを務めた。1937年にメトロポリタン歌劇場で副指揮者に任命されアメリカに渡航するが、ヨーロッパでのナチスの台頭により帰国が困難となり、アメリカに亡命。1938年に「ワルキューレ」で指揮者としてプロデビューし、1939年には前任のボダンツキーの死去に伴い、ドイツのレパートリーを任されるようになる。1942年にアメリカ市民権を獲得し、翌年にはクリーブランド管弦楽団の首席指揮者に就任するも、米軍への徴兵のために短期間で退任。1944年、メトロポリタン歌劇場に復帰し、1947年から1955年までロチェスター・フィルハーモニー管弦楽団、1962年から1969年までボストン交響楽団の音楽監督を務めた。その後はフリーランスとして、故郷のヨーロッパを含む各国で客演を行い、指揮者として活動を続けた。1993年、スイスのチューリッヒにて死去する。
3.「赤いウィーン」
第1次世界大戦敗北後の1919年から1934年までのウィーンは、その政治体制から「赤いウィーン」と呼ばれていた。ラインスドルフが生まれ、亡命するまで過ごした26年間の大部分がこの時代にあたる。ほとんどの部分が田口晃氏の『ウィーン: 都市の近代』³に負うものだが、以下では「赤いウィーン」の成立の契機であるオーストリアの第一次世界大戦の敗北から簡単に示す。
1918年に第1次世界大戦で敗北したオーストリアは、スラヴ系諸国の独立によって、かつての帝国から解体され、従来の経済基盤を失った。また他の中欧諸国と同様、急進的な労働者や帰還兵がレーテ(ロシア語でソヴィエト)運動を展開していた。こうした混乱極まる状況で、左派のオーストリア社会民主党が政権を握った。社会民主党は、労働者の権利向上や社会保障制度の充実を図る政策を議会制民主主義の枠組みで進めた。特にウィーン州においては、多数の議席を獲得した上、州独自の立法権と課税権が行使できたため社会実験的な政策の実施を可能にしていた。こうしてウィーンで成立した左派政党主導の政治体制を「赤いウィーン」と呼ぶ。
社会民主党は「無階級社会」を標榜し、労働者に対する「教育」によりその実現を目指していた。この「教育」とは、伝統的ドイツ文化を通じて政治的・文化的な素養を涵養し、生活環境の改善を通じて行動の自律性と共同体意識を醸成することであり、労働者に市民社会における「革命」の主体としての役割を自覚させることを目的としたものだった。そして、この構想のもと行われた「教育」的な文化政策に若きラインスドルフは関与していくことになる。
4. D.J. バッハとピスク
4.1. D.J. バッハ
「赤いウィーン」の文化政策、とくに音楽において最重要となる人物ダーフィト・ヨーゼフ・バッハ (1874 - 1947、以下D.J. バッハ) である。彼は、ウィーンの社会主義者の新聞“Arbeiter-Zeitung”『労働者新聞』で音楽批評を担当し、1905年に“Arbeiter-Symphoniekonzerte” 『労働者交響楽演奏会』 を創設する⁴。1917年に労働者新聞の責任編集者に就任し、1919年に“Sozialdemokratische Kunststelle” (社会民主主義芸術局) が設立されると、D.J. バッハはその責任者となった⁵'⁷。
彼は、シェーンベルクに薫陶を受けた新ウィーン楽派の音楽家たちと密接な関係を築いていた。シェーンベルクとは同い年で、幼少期から友人関係にあったが、政治的な関与に対しては若干の距離がおかれていた⁷'⁸。また、シェーンベルクは、ベルリンのプロイセン芸術アカデミー教授への就任など⁷'⁸、ウィーンを離れることが多く、地理的にも離れていた。一方で、ウィーンを拠点としていた新ウィーン楽派の音楽家たちには、活動する機会を与えつつ、それを労働者階級と伝統的音楽との間を縮める成果として利用しようとしていた。
4.2. パウル・アマデウス・ピスク
新ウィーン楽派の中でも、『労働者新聞』の音楽担当を引き継ぎ、『社会民主主義芸術局』の役人を務めるなど、D.J. バッハと深く関与した音楽家がパウル・アマデウス・ピスクである¹'⁶'⁷。彼は、シュレーカーとシェーンベルクに作曲を師事し、シェーンベルクの私的演奏協会で書記を勤めるとともにピアノを演奏するなど、新ウィーン楽派の作曲家および演奏家としても活動していた⁴。また、『労働者新聞』の音楽担当の他にも、ウニヴェルザール社(ユニバーサル・エディション)の機関誌“Musikblätter des Anbruch”『アンブルッフ』の共同編集なども務め、音楽批評家としても新ウィーン楽派を支えていた¹'⁹。
さて、このピスクとは、ラインスドルフが1929年から高校を卒業するまで師事していたその人である。ラインスドルフは、教師としての彼を「徹底的な古典主義者」と振り返っている。授業でアルバン・ベルクの『ヴォツェック』を和声や対位法で分析していたことが述べられており、古典的なアプローチで当時の「現代音楽」に触れていたことが窺える¹。他にも生徒の作品に対して他の生徒とともに厳密に議論が行うことがあり、「現代音楽の核心に触れているように感じていた」と振り返っている²。ラインスドルフの演奏を考えるにあたって、このように新ウィーン楽派の作曲家の下で「現代音楽」を古典的に分析していたという事実は見逃せないだろう。
4.3. ピスクの与えた機会
授業のほかに、ピスクはラインスドルフに多様な機会を提供していた。後にラインスドルフはこの機会で得た経験からプロの演奏家となることを決意するように、彼の授業以上のものをもたらした。ラインスドルフは、次のように述べている²。
ラインスドルフは、ここで記述されているゴーストライター以外にも、『社会民主主義芸術局』の主催する公演でのピアノの演奏など、小規模な仕事を請け負っていた。その内容は、労働者階級のために建造されたホールでの公演や、団地のダンスクラブ、カバレー (キャバレー) などの伴奏であった¹'²。ラインスドルフは、ピスクを通してD.J. バッハの文化政策のプレイヤーを任せられていたと言え、従って演奏家としてのルーツが「赤いウィーン」にあったと言えるだろう。ただし、彼の活動は、D.J. バッハが主導する文化政策のメカニズム上にはあったものの、「赤いウィーン」体制への支持から行ったものではないことは次の記述から明らかである¹。
ここで彼は敢えて「ブルジョワ」(原文は形容詞のbourgeois)という言葉を用いているが、授業料を雑用でまかなっていた彼は裕福な環境にいたわけではなく、労働者に与える側の立場にあったことを強調するものであり、「赤いウィーン」における彼の立場を表していると言える。
このようにピスクから多様な機会を得ていたが、実際には、母親からは音楽学で博士号を取った後にジャーナリストもしくは批評家になることが望まれており、そのための音楽教育であった。しかし、彼はこうした機会を通じて、演奏家として手応えを感じるようになっていた¹。
結果的に「赤いウィーン」での活動は、彼に音楽学ではなく、プロの演奏家の道を歩ませることになった。
5. 超保守的な街の「ゲットー」
ラインスドルフは、前述のようなピスクの政治的立場が背景にあるものの他に、エメリッヒやピスクの作曲家のコネクションからも仕事を得ていた。現代音楽で地位を確立しつつあったウィーンのウニヴェルザール出版社からの仕事で、オーケストラのパート譜を総譜と照合・修正するというものであった¹。彼は、この仕事について「楽器の助けを借りずに現代音楽の総譜を読む方法を学んだ」と振り返っており¹、彼が「現代音楽」を通してスコアリーディングを磨いていたことがわかる。
これと同時に、彼は当時のウニヴェルザール出版社について振り返り、この仕事の「現代音楽」の側面を強調している¹。
この『アンブルッフ』は、1919年から1937年までウニヴェルザール出版社が出版していた現代音楽を専門とする雑誌で¹、新しい世代の音楽に対する代弁者の役割を担っていた⁹。寄稿者の多くがシェーンベルクやシュレーカーの弟子で、ウィーンの音楽家が主体となっていた⁹。またシェーンベルクも自身の作曲技法について多く寄稿するなど、「凡庸な商品の宣伝に終始する」ようなものではなかったことは明らかである。しかし彼らのほとんどがユダヤ人であったために、反ユダヤ主義者からの批判を受けていた⁹。ラインスドルフも彼らと同様ユダヤ人であり、「素晴らしいゲットー」というのは保守的なウィーンでの彼らの立場が反映されたアナロジーだろう。そしてラインスドルフも彼らに連なり、「進歩派」(原文ではprogressives)の立場にあったと回顧している。
しかしながら、この仕事が端緒となり師のピスクと決別してしまう。その理由を次のように述べている¹。
皮肉にも、ウニヴェルザール出版社のスコアと接するうち、ラインスドルフは教条主義的な新ウィーン楽派から距離を置き、ピスクと「決別」することになった。ピスクとの師弟関係はここで途切れてしまうが、これらの経験を回顧するにあたってまず次のように総括している¹。
ウィーンの音楽家たちと青年期を過ごして、「何事も習慣的に再検討し、一切を当然視しない」姿勢を本質として見出し、彼の中で内面化していったことが窺えるだろう。彼の「決別」は、シェーンベルクの門人たちのスコアに対しても厳密な姿勢で挑んだ結果であり、自立と言えるものであったのであろう。
ラインスドルフは、自らの演奏論を示したエッセイをいくつか残している。その一つで多数のスコアを例示した上で次のように強調しているが、ウィーンの音楽家たちの姿勢がラインスドルフに深く根付いていることが窺えるものとなっている¹⁰。
伝統や習慣に囚われず、更には学術的な成果を取り入れ、客観的・批判的にスコアを読むことの重要性が強調されており、これはウィーンの音楽家たちに見出した姿勢そのものであろう。最終的に彼らと「決別」したものの、共に保守的なウィーンに対峙して活動した経験は音楽家のルーツとして不可欠な要素であり続けていたのである。
6. 労働者交響楽演奏会
ピスクとの「決別」後、演奏家としてのキャリアを本格化させたラインスドルフは、『社会民主主義芸術局』の仕事を継続的に請け負っていた。その中で特筆すべきは、1933年から約1年間、ウェーベルンが指揮する『労働者交響楽演奏会』にリハーサルピアニストとして参加していたことである。「特に私の音楽的および批評的な発展にとって非常に価値のあるもの」と振り返っていることからも¹、この活動の重要性は疑うべくもなく、彼の指揮者としてのルーツの一端も見出されるだろう。
6.1 労働者交響楽演奏会とウェーベルン
まず、このD.J. バッハが設立した楽団の「赤いウィーン」的な側面を確認しておきたい。1933年12月にD.J. バッハが主催したウェーベルンの50歳の誕生日を祝う式典において、D.J. バッハはスピーチで指揮者としての彼を「芸術作品への一般的な意識を生み出し、芸術家およびその作品と一体化した共同体の意識を実現した」と評する¹¹。ウェーベルンの労働者交響楽演奏会における指揮活動も同様に、D.J. バッハの文化政策のメカニズム上にあったと言える。実際ウェーベルンは、社会民主党と距離を置いていたものの⁸、このD.J. バッハから与えられた仕事で生計を立てていた⁴。労働者交響楽演奏会はウェーベルンに対するパトロネージュとしての機能を有していた⁴'⁸。
6.2. ウェーベルンの指揮
ウェーベルンは、余りの完璧主義でリハーサルでもほんの数小節しか触れることができず、土壇場で代役が駆けつけて指揮をすることが多々あったと証言されている。シェーンベルクの門人、そして義兄で、私的演奏会にも参加していたヴァイオリニストのルドルフ・コーリッシュは、「彼は十分な公演の理想を事実持っていたので、妥協せず、公演の前に降りることがよくあったというのは本当にそのとおりです」と証言している⁴。コーリッシュとともに数々のシェーンベルクの作品を初演していたヴィオリストのマルセル・ディックは、「シェーンベルク流の完璧さは、その完璧さに献身的な人でなければ達成できるものでは」ないとした上で、ウェーベルンのリハーサルは「シェーンベルクの何倍もすごいものだった」と振り返る⁴。その極めて入念なリハーサルを経た演奏は、ベルクが「あらゆる点でウェーベルンはマーラー以降の最も偉大な指揮者です」と激賞するほどのものであった⁴'¹²。
6.3. ラインスドルフと指揮者ウェーベルン
ラインスドルフは、指揮者ウェーベルンをピスクらと同様、保守的なウィーンとの対立が避けられなかった音楽家として次のように振り返っている¹。
これに続けて保守的なウィーンの反発を招いた「独自」の解釈について、次のエピソードを述べている¹。
ウェーベルンの解釈が伝統的なものよりも作曲者の意図に従っていたことが強調されているが、ここにラインスドルフの演奏のモットーが表れている。ラインスドルフは「いつも作曲家自身の許へ帰っていくということを第一義と考えるべき」と述べるなど、作曲家に対して忠実であることを演奏におけるモットーとしており¹⁰'¹³、ウェーベルン「独自」の解釈がこの観点から評価されている。
後出しになってしまうが、5節の最後に示したラインスドルフの客観的・批判的な方法は、作曲家に対して忠実に演奏するための手段として示されていることを付け加えよう¹⁰。そうするとこのラインスドルフの方法と作曲家の意図に忠実であったウェーベルン「独自」の解釈方法とが重なってくる。この2つは一致するものではないが、どちらも因習を孕んだ伝統に対峙するものであり、「何事も習慣的に再検討し、一切を当然視しない」姿勢を共有している。ウェーベルンの指揮が作曲家の意図を意識したものかは定かではなく、またラインスドルフが意識するようになった時期もわからないが、ウィーンの音楽家たちの姿勢がラインスドルフのモットーを果たす手段として結実したことをこのエピソードが示している。そしてその点でこの経験が「非常に価値のあるもの」とされているのだろう。
また、コーリッシュらの証言にあるようなウェーベルンの行き過ぎた完璧主義も目撃していたはずである。伝統からの反発を招こうとも解釈を演奏に徹底して反映させようとする姿がラインスドルフの目に映っていただろう。そして、その演奏がラインスドルフのモットーを体現し、またベルクが激賞するような感動的なものとなっていたとすれば、ラインスドルフにとって決定的な経験になったと想像されるよう。
指揮者のキャリアの起点となることが多いリハーサル・ピアニストだが、こうした伝統との衝突が際立つ中でラインスドルフはその経験を得ていたことは「赤いウィーン」での活動の中でも特筆される。他方、そこにはD.J. バッハによる「赤いウィーン」の文化政策が背景にあり、彼のキャリアを特徴づけている。
7. おわりに
ここまで、ラインスドルフの音楽のルーツを探るべく、彼の「赤いウィーン」における活動を見てきた。まず、D.J. バッハの文化政策のメカニズム上で、ラインスドルフが指揮者として活躍するための決定的に重要な機会を得ていたことが特筆される。ウェーベルンのリハーサルピアニストを務める機会を得るなど、ラインスドルフは文化政策のプレイヤーとして政策の対象となる労働者よりも恩恵を受けていたと言える。そして、巨匠ラインスドルフの誕生はD.J. バッハの文化政策の一つの帰結と言えるだろう。
「赤いウィーン」の枠組みの外でも彼の音楽のルーツが見出される。ラインスドルフは「進歩派」の立場であったとして、新ウィーン楽派などウィーンの音楽家たちに同調して活躍していた。「超保守的な街の素晴らしいゲットー」という言葉に表れているように伝統と対立する立場にあった。ラインスドルフは、そうしたウィーンの音楽家たちから伝統に衝突してでも客観的・批判的に向き合う姿勢を見出していただろう。この姿勢は、指揮者となってからも一貫しており、作曲家の意図に忠実に演奏するという彼のモットーにも繋がっている。したがって、彼が接したウィーンの音楽家たちは、指揮者ラインスドルフの音楽的ルーツの一つであると言えるだろう。
最後に、筆者の主観が更に大きくなるが、ラインスドルフの演奏に触れたい。ラインスドルフの演奏の特徴といえば、明晰な響きと解釈の明快さだろう。加えて、一連のベートーヴェンやマーラーの交響曲の録音などで聴かれる、特異でありながらも説得力のある解釈なども特徴として挙げられるだろう。これらの特徴は、彼の伝統や習慣に囚われることなく、作曲家の意図を忠実に伝えようというモットーが体現されたものと言える。そして、スコアの校正などで蓄積されたスコアリーディングの鋭さがそれを可能にしていると言えるだろう。では、ラインスドルフが接していた当時の現代音楽の場合はどうだろうか。シェーンベルクの『ワルシャワの生き残り』や『室内交響曲第1番』などの録音が残されており、その演奏はというと古典的な構成感・均整感が際立ち、シェーンベルクの表現主義的側面が薄いものなのである。これにはピスクが古典的なアプローチで『ヴォツェック』など当時の現代音楽を彼に教えていたことが思い出される。このように、ラインスドルフの音楽には「赤いウィーン」での経験が反映されていると言え、彼の演奏を聴く上で「ウィーン」という彼のルーツが十分な手がかりになるはずである。
参考文献
本稿の欧語文献を引用した箇所の翻訳は、邦訳があるものはそれを採用し、ないものは筆者が独自で行った。
[1] Leinsdorf, Erich. “Erich Leinsdorf on music”, Portland: Amadeus Press, 1997, pp. 15-33.
[2] Leinsdorf, Erich. “CADENZA: A Musical Career”, Boston: Houghton Mifflin Company, 1976, pp. 3-28.
[3] 田口晃 著, 『ウィーン: 都市の近代』, 岩波書店 (2008), pp. 157-213.
[4] ジョーン・アレン・スミス 著, 山本直広 訳, 『新ウィーン楽派の人々: 同時代者が語るシェーンベルク、ヴェーベルン、ベルク』, 音楽之友社 (1995), pp. 144-170.
[5] SPÖWien. “Sozialdemokratische Kunststelle”, dasrotewien.at - Weblexikon der Wiener Sozialdemokratie. https://www.dasrotewien.at/seite/sozialdemokratische-kunststelle. (参照2024-11-10)
[6] SPÖWien. “Pisk, Paul Amadeus”, dasrotewien.at - Weblexikon der Wiener Sozialdemokratie. https://www.dasrotewien.at/seite/pisk-paul-amadeus. (参照2024-11-10)
[7] Moldenhauer, Hans. “Paul Amadeus Pisk and the Viennese Triumvirate”. In Glowacki, John (Ed.). “Paul A. Pisk; essays in his honor”, Austin: College of Fine Arts, University of Texas, 1966.
[8] Johnson, Julian. “Anton Webern, the Social Democratic Kunststelle and Musical Modernism”. Austrian Studies, vol. 14, 2006, pp. 197-213. JSTOR. http://www.jstor.org/stable/27944807. (参照2024-11-10)
[9] 西村理, 『『音楽雑誌アンブルッフ』の社会政治的な意味 -両大戦間における反ユダヤ主義との関係-』, 大阪音楽大学研究紀要, 2010, 48 巻, pp. 61-76. https://doi.org/10.24585/daion.48.0_61. (参照2024-11-08)
[10] エーリヒ・ラインスドルフ 著, 井本晌二 訳,『音楽を読む法』, シンフォニア (1970), pp. 68-69
[11] Wildgans, Friedrich. “Anton Webern”. London: Calder & Boyars, 1966, pp. 176-180.
[12] Berg, Alban. “Alban Berg: letters to his wife”. Grun, Bernard (Ed. and Trans.). London: Faber, 1971, p. 301.
[13] Leinsdorf, Erich. “The composer's advocate : a radical orthodoxy for musicians”, New Haven: Yale University Press, 1981, pp. vii-viii.