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静かなる革命(1)林家あんこ「北斎の娘」/私の落語がたり

縁は異なもの味なもの

2023年6月17日、ある「革命」の狼煙が上がった。
それは、あるひとりの女性の人生における「革命」であり、その人が属する落語界での「革命」でもある。
そして、その「革命」は日本の美術界にまで広がる可能性も大いにある。
その足跡を、想像の翼を大いに広げつつ、追ってみようと思う。

二つ目の落語家、林家あんこ(以下敬称略)はその日、自らが1年という短い期間で作り上げた創作落語三部作を、通しで高座にかけた。
古典落語の場合、ネタは長い年月をかけて練り上げられ、容易に足し引き出来ないほどの完成度で仕上がっている。
そうした意味でいうと「創作三部作を1年で」というのは無謀な突貫工事といっても良い。
彼女がそんな荒事に挑んだのには、理由があった。

師匠・林家しん平に入門してから10年という『節目の年』に向け、形を残したいという気負いもあったであろう。だが、もっと現実的な理由もあったはずだ。それが『墨田親善大使の任期』だ。

「落語家として活躍の幅を広げたい」
そう考えていた彼女は2021年、自ら地元・墨田区の親善大使に応募し、見事その座を勝ち取った。
「落語家として、自分ができることは何だろう」
悩むまでもない。
落語家なのだから落語をすれば良いのだ。
問題は、その演目だった。

古典でそれらしい演目はもちろんある。だが、地域の価値を掘り起こすような題材はないものか。
「アートで地域を盛り上げたい」という墨田区の意向を汲みながら、あんこがまず目を向けたのは、世界的に知られる浮世絵師の葛飾北斎だった。
だが、彼の何を語ればよいのか。
皆目見当がつかない中で、一筋の光明となったのが北斎の娘・お栄の存在だった。

北斎の三女として生まれたお栄。
だが、長女次女は夭折している。そんなこともあってか、お栄は北斎の画業を助け、いわば一番弟子として支えたというのだ。
「こんなことがあるのか」と、あんこは思ったのではないか。
そのお栄の人生に、自らの境遇と深く重なる部分があったからだ。

あんこの父は、ベテラン落語家の林家時蔵。
落語界に足を踏み入れてから、自分は何度「時蔵の娘」と呼ばれたことか。
はるか先を行く父の背を追いながらも、自らの道を探し、迷い続ける修行の日々…。
「これなんじゃないか」
地元・墨田区に目を向けたが故に見つけた「北斎の娘」という題材。
「自分らしく、等身大で向き合ってみたい」
ネタ作りの挑戦が始まった。
だが、急がねばならない。
自分が『墨田親善大使』である間に形にせねば。
誰に急かされたわけでもなかろうが、おそらく彼女はそう思ったはずだ。
そして、そんな責任感が、彼女が大使を任された理由の一つなのだろうと、私は思う。

去年の5月、気がせくままに筆をとって書き上げた「北斎の娘(上)」。
とにかく、盛り込みたい情報が多かった。
そもそも北斎のエピソードが多岐にわたる。そのうえで、お栄の人となりを語らねばならない。
その顔の特徴から父・北斎に「アゴ」と呼ばれたこと。
葛飾応為(おうい)の号は、北斎が彼女を「おーい」と呼びつけたことからついたこと。一度は嫁に行ったものの、離縁して画業に励んだこと。
そして、自らの名ではなく、父の名で描くことへの葛藤…。

ためらいはある。

修行中である二つ目の自分が、創作にうつつを抜かしてよいのだろうか。
だが、親善大使も北斎の娘も、自ら辿り着いた『縁』である。

「とにかく、思い立ったからにはやるしかない」
見る前に跳べ。まず跳んでみることだ。
そういったのは誰であったろうか。

東京にいる落語家は総勢800名あまり。
そのうち、女性の落語家はわずかに40人ほどだという。
落語と向き合うために、おのれのアイデンティティを模索するひとりの女性の静かなる革命。

その前夜であった。


(つづく)


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