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「慢心と残心」/連作短編「お探し物は、レジリエンスですか?」

「もっと喜べばいいのにね」

妻・ゆかりのつぶやきに、一緒にテレビを見ていた稲堂丸淳史は、まあね、と相槌を打ちながらも、言葉を続けた。

「残心だね」

「ザンシン?そんな新しいこといってた?」

テレビに映し出されているのは、オリンピック柔道男子の78キロ級でいましがた金メダルを獲得したばかりの大河原選手のインタビューだった。宿敵を延長戦の末に得意の内股で倒した際にも歓喜の声一つ上げず、直後のインタビューでも淡々とした表情で試合を振り返る様子を、ゆかりは物足りなさげに眺めていたのだ。

「いや、『残す心』と書いて残心。武道の心構えだな。俺、高校まで弓道やってたけど、弓道でも残心はあるよ」

「え、どういうこと?」

「柔道や空手なんかの格闘系でいうと、相手を倒した後も不測の事態に備える心構えのことだろうね。弓道だと、矢を射た後も心を緩めない姿勢、ってとこかな。勝つことが目的じゃない。自分との戦いは続く、ってこと」

「ふーん。なんだか難しいのね」

つまらなそうにいうと、ゆかりは風呂の脱衣所へと姿を消した。淳史はその背を見ながら、7年前のことを思い出していた。


勝てばインターハイ、という高体連・地区予選の決勝戦。4人20射で競う団体戦で、淳史は全射を的中させたが他のメンバーがふるわず、結果は惜しくも2位に終わった。高校最後の大会で、団体での全国出場を逃したショックから、淳史は自信のあった個人戦で実力を発揮できず、敗退を喫したのだった。

「・・・『残心』の意味を考えたことはあるか、淳史」

地元で長年、弓道教室を続けている淳史の父は、夕食後に大会の結果を伝えた淳史に向かってそう問いかけた。

「ちゃんとやってるよ、そのくらい」

「型としての残心じゃない。心構えとしての残心だ」

「俺は団体戦で皆中してたんだよ。なのに・・・」

「いまはいい。だが今日のことは忘れるな」

父はそれ以上何も言わず、淳史はその年の夏以降、弓を手にすることはなかった。そして、父の弓道場に足を向けることもなくなった。

過去の映像が脳内を巡る中、淳史はオリンピック勝者の不愛想なインタビューをぼんやり眺め続けていた。


翌朝、淳史はいつもより早く勤め先の新聞社に出社した。トラウマ体験のフラッシュバックのせいでなかなか寝付けず、早朝から目が冴えてしまったのだ。まだ誰もいないはずの時間だが、編集局内には人の気配があった。政治経済担当のキャップ、有村の後ろ姿だった。

「おはようございます」

声をかけて近づくと有村は、おう、と簡単に返事をした。その前にはきょうの朝刊。周囲にはボイスレコーダーや取材ノートなどが広げられている。

「朝から何をされてるんですか?」

「あ?ああ、感想戦」

「感想戦?将棋のあれですか?きのう誰かの対局とかありましたっけ」

「いや、俺の感想戦。きょうの記事を読み直して、取材の段どりとか、原稿の表現とか、手順を見直してる。元将棋部のクセでね」

有村は新聞と取材ノートを見比べながら続けた。

「もっといい取材ができたかもしれない。もっといい記事が書けたかもしれない。やらないと落ち着かなくてね」

「今日の記事って、クジラが浜に打ち上げられたのはなぜかっていう、アレですよね?幅広い視点からすごくわかりやすくまとまってたと思いますけど」

有村は作業の合間にチラリと淳史をみやった。

「最善を尽くしたかどうか。俺のようなだらしない人間は、気を抜くと忘れちまうんだよ、愚直に向き合うことを。だから日頃からクセにしておかないと」

淳史の脳裏には瞬間、かつて弓道場で見た父の姿が映った。矢を放ったあとの浩然の気。あれはただの構えではなく、自らの射を見つめなおし、次へ繋ぐための気構えだったのだ。

「・・・残心、ですね」

頭では理解していたつもりだったが、7年の時を経て、ようやく心に届いた言葉だった。

「ザンシン?そんな新しいこといったかな」

「いえ、こちらの話で。それ、俺も真似していいですか。感想戦、でしたっけ?」

「ご自由に」

淳史は自分のデスクにつくと、PCを立ち上げ、取材ノートを広げ始めた。OSの起動を待つ間、久しく忘れていた弓と矢の感触が両手に蘇るのを感じていた。


<終>



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