誕生日に
全てが特別に見える、誕生日の朝。
裸足で濡れた草を踏む。
昨夜、雨が降ったのか。朝露なのか。
いつから人は、裸足で大地を踏まなくなったのだろう。
足に土や草がつくことを、厭うようになったのだろう。
この心地よさ。安心感。
家に帰り足を洗う1分間が惜しいくらい、
舗装された道を車輪でスピードを出して進めることが進歩であり、人間の幸せなのだと思い込めるくらい、
私たちが失ってきたものがある。
いやいや、誕生日の朝から、失ったもののことを嘆くのはやめよう!!
だってこんなに、世界は輝いている。
ありがとう、ママ、パパ。
いのちを綿々と繋いできてくれたいのちたち。
出会ってくれた全てのいのちたち。
ありがとう、地球。
目をつむって歩くと、
後ろから私を
ふんわりとした、あたたかい
おおきな風船のような
たくさんの手のような
そんな支えを感じた。
私はまだ歩いていける。
私たちはまだまだ歩いていける。
走らなくていい。
遠くまで行くには、ゆっくり行くのだ。
ゆっくりいくほど、はやいのだ。
このところは
これまで走り続けていた自分を見つめる期間だった。
自分ができる限りたくさんのことを、
自分の力を出し切るまで、ギリギリ
することが良いというか
生きるってそういうものだと
思ってきたんだと気づいた。
疲れていた。なのに
疲れているなんて言ってちゃダメ、
もっとやって!もっと頑張って!
自分をそうやって追い立てていたんだ。
この世界がもっと良くなるようにって
思ってるのに、行動しているのに。
私は疲れて、自分にも周りにも優しくなれていないと気づいた。
そうじゃない。
私が感じたいのは。
全てのものに暖かい気持ちを持てる、そんな感じ。
辛いものにも、喜びにあるものにも
そうだね、辛いんだね、そうだね、嬉しいねって
こころから感じられたら、
何をしていてもいいんじゃないだろうか。
私、9月にどうしても行きたい、会いたい人たちがあって
でも夏休みに旅してて、お仕事もできていなかったから
うーん、厳しい、お金足りなくなりそうだから
諦めようかと思ったんだけど、
やっぱりどうしても行きたくって
お坊さんでもある親友にんにんに相談したの。
そしたら彼はサキちゃんのためにって
「お布施」をしてくれたの。
集めてくれてるの。
お布施って。
「お金ちょうだい」「お金あげる」とは違う感じ。
私がしたいことを、認めてもらったような
背中を押してもらったような
あったかいエネルギーが流れてきた。
私が存在していることそのものも、認めてもらったような。
今朝、背中に感じたあの支えのような。
なんだこれ!
たかがお金じゃないのか!
何かと引き換えのお金。
それが当たり前の社会の法則だとされてきたけれど
違うこともあるんだなぁって。
思えば私も、この旅の間も、これまでも
等価交換だとしたらお金をいただくようなことを
いいんだよー、私の喜びだよーって
いっぱい振り撒いてきたなあ!
それでよかったんだなあ!
自分の行為が、本当の喜びであるとき
そこに循環するエネルギーは
お金に乗ることもあるし、乗っていないこともある。
問題は、自分の行為が本当の喜びでないときに
お金がないと循環しないってときだよね。
そんな話が、今読んでいる本に書いてある。
お金がもらえないとしたくないことを、
私たちはしすぎてしまう社会構造なのだ、ということ。
私たちに原因があるって思いがちだけど、
まずはこの社会構造に問題があるんでは、ってことは
私がこれまで感じてきた夫婦の関係にも通じる。
相手や自分をやみくもに責めるのではなく、
自分の置かれている状況をただ理解することが
苦しんでいる「こころ」を助けることになる。
相手と対峙する、または
被害者、加害者となるのではなく
共に横に並んで、
社会の構造に対峙していく仲間となるのか。
そのために必要な理解を、
もたらしてくれるのが学問である!
と、唐突!
なんで急に学問の話になったかと言うと
私の母方は菅原道真の六男の家系だそうで
あまり気にしてなかったんだけど
にんにんが
「菅原道真は学問の神さまなんだよ。
その末裔として何か言うことない?」
って聞くから
「学問ってなんだろう」
と考えていたの。
私は受験勉強はしてきたけれど、
それは学問ではなく、競争のツールに過ぎなかった。
飽き飽きするほど勉強させられて、
競争させられて
学問さえ嫌いになってしまっていたというか
学問が何かをわからなくなっていたのかも、、、
なーんてことを書いていたら、長くなってしまった。
出かけるので、ここまでにします。
読んでいただいて、ありがとう。
49歳になった咲子を
これからもどうぞよろしくお願いします。