【書評】『歪んだ正義~「普通の人」がなぜ過激化するのか 』:大治 朋子
昨今の過激な政治的・宗教的・反社会的言論や暴力行為の背景には、いったいどのような社会的・心理的メカニズムが働いており、また実際にどのようなプロセスで「普通の個人」がこの陥穽に嵌まり込み、過激な言動に至るのか?
本書『歪んだ正義』の醍醐味は、著者本来のジャーナリストとしての立場から、現場の「生の声」を取り上げることにとどまらず、アカデミズムの世界に入り込み、この問いへの解答を理論的に構築していく過程を追体験できるところにある。
しかも読書を通じて著者と同伴することで、こちらまで最新の認知科学や心理学を学ぶことができるというまさに「一粒で三度美味しい本」だ。
さらに本書を価値あるものにしているのは、個人が過激化していくプロセスを可視化するだけでなく、それをブロック又は解除する手立てを模索している点である。
その一つは「共感性」をベースにした「外集団の人間化(=人間性の回復)」。つまり「“奴ら”もまた自分と同じ人間じゃないか」という感情の発動を促すことである。
そして、もう一つは個人が「心理的均衡(ホメオスタシス)=感情的安全」を保つためのリソースの喪失をいかに回避又は補填するか。著者が重視するのは「親密圏(顔の見える範囲の人間関係)」の絆による包摂(社会的承認)である。
相手の境遇や人となりを理解する体験があることや、互いに配慮しあえる人間関係を持つことは、自暴自棄になって過激な行動に至るプロセスを止めるうえで極めて重要だとの指摘は非常に重いものだ。
「いかにして生きるのか」という個人の実存的課題に対して、他者からの承認が十分に満たされず、さらに「自分はこれでいいのだ」という自己受容ができない場合、ひとは往々にして「(自分が不遇である社会の原因は)あいつらのせいだ」という他者否認や他者攻撃へと転嫁してしまう。
本書の前半部では、主に過激化した宗教原理主義者が考察の対象となっているが、問題はそれだけに止まらない。社会の流動化がすすみ、かつては個人を包摂していたコミュニティが溶解したことで、個人が「剥き出し」で先行き不透明な市場社会に晒される状況は、資本主義が発達している国ほど深刻だからだ。
そしてまた「個人の実存的不安」を「社会的公正の問題」に直結させ、集団や独裁者への支持や帰依を調達しようとするのは、宗教的原理主義に限らず政治家をはじめ、カルト教団からブラック企業まで枚挙にいとまがない(ヒトラーも麻原もトランプも、まさに「承認」と「正義」という二つのカードを実に巧みに操ったカリスマ的ジョーカーだった)。
さらにそこでは、自らの尊厳や被害感情を保つのに都合の良い「物語」や「陰謀論」が持ち出され、短絡的な善悪二元論から「外集団(“奴ら”)」に対する歪んだ敵対心をいっそう強化・拡大していってしまうのだ。
いわゆる「ローンウルフ」のように、普通の個人が単独でこのプロセスに入り込む危険性も多分にある。本書の後半で指摘されている通り、とりわけ昨今のネットテクノロジーは「見たくないものを見ず、見たいものしか見ない」という人間の認知的バイアスをますます助長させることに一役買ってしまっているからだ。
仮に自分の世界観を覆す「真実」に出会ったとしても、認知的不協和を解消するため、そしていったん「虚構」を纏ったセルフイメージを維持するため、ますます頑なに妄想に固執しようとしてしまう。
やっかいなことに人間の高度な「認知的推論能力=理性」は必ずしも「真実」に正面から向き合うとは限らない。ヒトは「自分は間違っていない」と正当化するためなら、あらゆる理由をつけて自分自身をも説得(ダマ)してしまう生き物なのだ。
ニーチェ曰く『真理とは、それなくしては特定種の生物が生きていることができないかもしれないような種類の誤謬である』。
「真理」を「正義」と置き換えても通用するとすれば、あらゆる正義とは常に既に「歪んだ正義」なのかもしれない。